たまたま新宿駅の様子を見て妙に懐かしい気分になった。

私は生まれは中野で長年高円寺に住んでいたことがあって、新宿駅は乗り換えの最寄り駅でもあったからだ。
それにしても凄い!
こんな時期でも、やっぱり人は多そうだし、それに、マスク率100パーセント!
自粛と呼びかけただけで日本は凄いなあ。。。
でも、今回はそういった話じゃなくて・・・私が「新宿駅」と聞いて思い出すことがもうひとつある。
↓
「見える人」によれば「新宿駅は霊がうじゃうじゃいるところ」
怪談といえば、お墓、病院、学校などと言われるけど、実際には駅とは比べ物にならないそうだ。
*もちろん新宿駅に限らず、大きな駅はどこも霊は多いという。
これは、ずいぶん前に職場の後輩、ゆかりちゃんから聞いた話だ。
彼女は、いわゆる「見える人」ではあるんだけど、霊と対話したり祓える人ではない。
そのため、いつも自分でも災難?に見舞われて困ってるって人だったのだ。
ある夜、飲み会の帰りに、彼女が新宿駅のホームで電車を待っていたときのことだ。
電車が近づいてきて、ファーンという音が聴こえてきた。
その瞬間、彼女は衝動的に電車に飛び込みたくなってしまったという。
思わず飛び出そうとしたとき、前後にいる人に押されて動きが阻まれたことで、かろうじて衝動を抑えることが出来たそうだ。
「もしも一番前に並んでたら、私、飛び込んでたかもしれない。」
言うまでもないことだけど、彼女は一切自殺願望はない。
フツウに仕事してフツウに飲み会して帰宅するつもりだったのだ。
なぜ、こんなことが起こってしまったか?
それは彼女自身が説明してくれた。
「どうやら、私は、人の強い想念を即座にキャッチしやすい体質らしい。
調べたところ、こうゆうのって、エンパシー(共感)能力っていうらしいよ。」
「深い悲しみを持ってる霊がそばにいると、私までその悲しみで、勝手に涙がどーと出てきてしまったりするんだよね~。 それくらいならいいんだけど・・・
今回は、死にたい!死にたい! 電車に飛び込まなきゃ!って、まるで強迫観念にとりつかれちゃってるような、すごい執念を持った霊体がそばにいたんだよね~。」
ひょええ~!
ひょっとしたら他にも、それで電車に飛び込んじゃった人だっていたのかもしれない。
特別強いエンパシー能力を持っていない人であっても、最近少し鬱状態で落ち込んでたりするときに、突如として衝動的に「事を起こしてしまう」ことだってありえるのかもしれない。 別に自殺までは考えてなかったとしても・・だ。
「私が知ってる限りではね・・と、ゆかりちゃんが話始めた。
「一番厄介なのは自殺しちゃった人の霊なんだよ。 自殺したのに死ねてないんだから。
いや、体は死んでるんだけど、死んでラクにはなれると思ってた死んだのに、どこにも行けずにそのまんま駅のホームにいる。
気持ちは自殺前の辛い気分のままなんで、早く死ななきゃと思って、何度でも飛び込んで今度こそ死のうとするんだよ。
ひょっとしたら、生きてるときよりも、その念がすごく強くなってるのかもしれない。」



「新宿駅はそんな霊が多いの?」
「いや、だいたいが無害な方が多いよ。 病院で病気で亡くなった人なのに、電車に乗って会社に行かなきゃ!という思いが強かったせいか、ただ黙々とホームで電車を待ってるだけの人とかもいるから。」
それはそれで哀れだけど・・でも自殺者の霊は悲惨過ぎる。
死んでラクになりたいと思ったからこそ自死を選んだんだろうに~。

せっかく死を選んだのに、きれいな花園が見えたり光が見えるわけでもない、三途の渡しにもたどり着けない!
懐かしい人がお迎えに来てくれるわけでもない。
まだ、そこにいるだけ。
しかも孤独のまま誰にも気づかれず、重い気持ちを背負ったままで、どこにも行けないとしたら・・・
そりゃあ、地獄だ。
「カトリック神学の倫理感では「自殺は罪」だったよね?」
ゆかりちゃんはカトリック信者だ。
「うん、人の尊厳を踏みにじる「不正な殺人」は絶対に 断罪されるべきものだと教わっているよ。
ただし、これには”自分で自分を殺すことも含まれる”んだよ。」
殺人を犯すことも自分を殺すことも同じ罪なんだね~。 神から与えられた人の尊厳を踏みにじる行為という罪なのだそうだ。
「でも、自殺する人は自分の命なんだから自分でどうしようが勝手でしょ!と思ってるんだと思うなあ。」
生まれた瞬間から、ひとり一人の人間の命が私たちの手に渡されている。
その命を神の愛の贈りものと見るか、あるいは私が自由に処分できる自分だけのものとするか? その見方によっては、生きる姿勢も人間関係のあり方さえも大きく異ってしまうということだろう。
少なくとも、神の愛を感じることがが出来る人なら、そこに神から与えられた命の尊厳だって見出しているだろう。
そんな人は、どんなことがあっても、自分を殺したりはしない。
「ねえねえ、日本では昔は切腹があったよね? あれも自殺なんだろうけど・・そうやって死んだ人たちも地縛霊になっちゃうことが多いのかな?」と、ゆかりちゃんが尋ねる。
「さて? 仏教の言葉だったかで”小我”と ”大我”というのがあるよね?
”小我”は自分の中の利己的な狭い世界観の中で、自我に囚われた生き方をしてることでしょ?
小我ゆえの切腹だったら、やっぱり死に切れてないかもしれないね~。」
「昔の人は死ぬことをわりと軽く考えてたのかもしれないね。 武士は切腹してたわけだし~。
だから現代の人も、日本人はそういった文化を受けついじゃって自殺を軽く考えちゃうのかなあ?」
「いやいや、私はそうは思わないよ。
武士の切腹は刑の執行でもあったし、やっぱり死は重たいものだったと思うよ。
それに、自分が死ぬことで人を助けたりお家を守ったりした武士だって多くいたと思うよ。
そうなると「大我」 による切腹だから・・きっと西洋の神様だって喜んで天国に迎え入れたんじゃないかな?」
「え? そんな切腹なんてあるの?」
「あるよ! 清水宗治さんを知らんのかね?!」

https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/
「ん? 誰それ・・?」
「ええええ、知らんのかい?! 秀吉の毛利攻めで備中高松城が落とされようってときに、最後まで主家を裏切らず、しかも家来5千名の命を救うことを条件に切腹した城主だよ。
でね、最後に舟の上で能を舞い、辞世の句を読んで切腹したんだけど、その立ち居振る舞いの美しいこと(←見てきたように言う私)
その見事さに敵味方の全員を感動させてしまったって有名な人だよ~!!」
「し、知らんがな~。
でも私、細川ガラシャは知ってるよ。
敬虔なカソリック信者で、西軍の石田三成に人質に取られそうになったとき、それを拒んで、家に火をつけて家来に介錯させたんだよね。
キリシタンの教えを守って自害はしなかったけど、あれだって実質的には自害したってことだもんね~。」
「そうだったね~。 昔の武士たちは、常に死を覚悟した生き方をしてたけど、決して軽く考えてたんじゃないと思う。
死ぬのは自分のためじゃなくて、誰かのためだったことが多かったんだと思う。」
なるほど、現代人の自殺とは違うわけだよなあ、とそこで二人で頷き合ったものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新宿駅でゆかりちゃんにまで、飛び込みさせようとしちゃった人(霊)は自分が救われかったのだろう。 何があったのかは知らないが・・。
誰かに憑依して殺そうとか、悪気があったわけではないかもしれない。
ただ単に自分の苦しさから逃れようとするため。
でも、そういったときの心はものすごーく狭くなってしまっている。
現実的なことを言えば・・電車遅延だとか、死体のパーツを集める駅員さんなど、他人に及ぼす迷惑についてさえ考えるゆとりもないのだろう。
おそらく、そんなことすべて・・何も見えなくなってしまっているのだ。
一方で、昔の切腹作法を読む限りででは、「極力人に迷惑をかけないように」の配慮がなされていたことが思い当たる。
「人間の命は生まれた時から確実に死に伺っている限りあるものでしょ、生を受けた瞬間から人は生きながら死につつある (dying)ってわけで・・・ 私はカトリック教会で、人間生命の尊厳や価値というのを教わったんだよ。
それは人は孤立した個人として生きるのではなくて社会だったり家庭、共同体などと連帯して生きるべき存在となるように生を受けたんだって。

「そこから、挫折と苦悩を 乗り越えて生きる意味と価値を 実際に感得することが生を受けた使命でもあるって。
それにはね、自分の関わる人間関係の中で理解され愛し愛されるとき、それをひとことで言っちゃうと、誰かのために生きるとき、生きる意味を見出して自分の生を充実したものにすることができるそうだよ。」
それが人の尊厳であり、だからこそ人の尊厳をぶち壊すこと、死を与えることが罪とされるってわけなんだね~。
私はそのときはじめて「自殺が罪」の深い意味を知った気がした。
「うーーん! それより、私は人の想念に引きづられそうになっちゃうとこ、なんとかしなきゃ!
今一番の課題だなあ、もっと自分を強く持つなる方法を学ばないとなんだよな~」と、ゆかりちゃん。
「とにかくね、駅のファ~ンて音、あれ、ヤバイよ~! たぶん私だけじゃなくって、疲れてぼーっとしてるときなんか引きこまれやすい音だと思うから、気をつけてよ~!
それに、ピーン、ポーンという音が一定の間隔で流れてたりするけど・・あれも、おかしな催眠効果を誘発するのかもしれないから気を付けた方がいいよ!」

目を覚まさせてくれるような車のクラクションの音はいいそうだけど、大きな駅で聴こえてくるファーンや断続的なピーン、ポーンは・・あまり良くないそうだ。

私は生まれは中野で長年高円寺に住んでいたことがあって、新宿駅は乗り換えの最寄り駅でもあったからだ。
それにしても凄い!
こんな時期でも、やっぱり人は多そうだし、それに、マスク率100パーセント!
自粛と呼びかけただけで日本は凄いなあ。。。
でも、今回はそういった話じゃなくて・・・私が「新宿駅」と聞いて思い出すことがもうひとつある。
↓
「見える人」によれば「新宿駅は霊がうじゃうじゃいるところ」
怪談といえば、お墓、病院、学校などと言われるけど、実際には駅とは比べ物にならないそうだ。
*もちろん新宿駅に限らず、大きな駅はどこも霊は多いという。
これは、ずいぶん前に職場の後輩、ゆかりちゃんから聞いた話だ。
彼女は、いわゆる「見える人」ではあるんだけど、霊と対話したり祓える人ではない。
そのため、いつも自分でも災難?に見舞われて困ってるって人だったのだ。
ある夜、飲み会の帰りに、彼女が新宿駅のホームで電車を待っていたときのことだ。
電車が近づいてきて、ファーンという音が聴こえてきた。
その瞬間、彼女は衝動的に電車に飛び込みたくなってしまったという。
思わず飛び出そうとしたとき、前後にいる人に押されて動きが阻まれたことで、かろうじて衝動を抑えることが出来たそうだ。
「もしも一番前に並んでたら、私、飛び込んでたかもしれない。」

言うまでもないことだけど、彼女は一切自殺願望はない。
フツウに仕事してフツウに飲み会して帰宅するつもりだったのだ。
なぜ、こんなことが起こってしまったか?
それは彼女自身が説明してくれた。
「どうやら、私は、人の強い想念を即座にキャッチしやすい体質らしい。
調べたところ、こうゆうのって、エンパシー(共感)能力っていうらしいよ。」
Wikiによれば・・
共感、エンパシーは、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。
例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。
「深い悲しみを持ってる霊がそばにいると、私までその悲しみで、勝手に涙がどーと出てきてしまったりするんだよね~。 それくらいならいいんだけど・・・
今回は、死にたい!死にたい! 電車に飛び込まなきゃ!って、まるで強迫観念にとりつかれちゃってるような、すごい執念を持った霊体がそばにいたんだよね~。」
ひょええ~!

ひょっとしたら他にも、それで電車に飛び込んじゃった人だっていたのかもしれない。
特別強いエンパシー能力を持っていない人であっても、最近少し鬱状態で落ち込んでたりするときに、突如として衝動的に「事を起こしてしまう」ことだってありえるのかもしれない。 別に自殺までは考えてなかったとしても・・だ。
「私が知ってる限りではね・・と、ゆかりちゃんが話始めた。
「一番厄介なのは自殺しちゃった人の霊なんだよ。 自殺したのに死ねてないんだから。
いや、体は死んでるんだけど、死んでラクにはなれると思ってた死んだのに、どこにも行けずにそのまんま駅のホームにいる。
気持ちは自殺前の辛い気分のままなんで、早く死ななきゃと思って、何度でも飛び込んで今度こそ死のうとするんだよ。
ひょっとしたら、生きてるときよりも、その念がすごく強くなってるのかもしれない。」



「新宿駅はそんな霊が多いの?」
「いや、だいたいが無害な方が多いよ。 病院で病気で亡くなった人なのに、電車に乗って会社に行かなきゃ!という思いが強かったせいか、ただ黙々とホームで電車を待ってるだけの人とかもいるから。」
それはそれで哀れだけど・・でも自殺者の霊は悲惨過ぎる。
死んでラクになりたいと思ったからこそ自死を選んだんだろうに~。

せっかく死を選んだのに、きれいな花園が見えたり光が見えるわけでもない、三途の渡しにもたどり着けない!
懐かしい人がお迎えに来てくれるわけでもない。
まだ、そこにいるだけ。
しかも孤独のまま誰にも気づかれず、重い気持ちを背負ったままで、どこにも行けないとしたら・・・
そりゃあ、地獄だ。
「カトリック神学の倫理感では「自殺は罪」だったよね?」
ゆかりちゃんはカトリック信者だ。
「うん、人の尊厳を踏みにじる「不正な殺人」は絶対に 断罪されるべきものだと教わっているよ。
ただし、これには”自分で自分を殺すことも含まれる”んだよ。」
殺人を犯すことも自分を殺すことも同じ罪なんだね~。 神から与えられた人の尊厳を踏みにじる行為という罪なのだそうだ。
「でも、自殺する人は自分の命なんだから自分でどうしようが勝手でしょ!と思ってるんだと思うなあ。」
生まれた瞬間から、ひとり一人の人間の命が私たちの手に渡されている。
その命を神の愛の贈りものと見るか、あるいは私が自由に処分できる自分だけのものとするか? その見方によっては、生きる姿勢も人間関係のあり方さえも大きく異ってしまうということだろう。
少なくとも、神の愛を感じることがが出来る人なら、そこに神から与えられた命の尊厳だって見出しているだろう。
そんな人は、どんなことがあっても、自分を殺したりはしない。
「ねえねえ、日本では昔は切腹があったよね? あれも自殺なんだろうけど・・そうやって死んだ人たちも地縛霊になっちゃうことが多いのかな?」と、ゆかりちゃんが尋ねる。
「さて? 仏教の言葉だったかで”小我”と ”大我”というのがあるよね?
”小我”は自分の中の利己的な狭い世界観の中で、自我に囚われた生き方をしてることでしょ?
小我ゆえの切腹だったら、やっぱり死に切れてないかもしれないね~。」
「昔の人は死ぬことをわりと軽く考えてたのかもしれないね。 武士は切腹してたわけだし~。
だから現代の人も、日本人はそういった文化を受けついじゃって自殺を軽く考えちゃうのかなあ?」
「いやいや、私はそうは思わないよ。
武士の切腹は刑の執行でもあったし、やっぱり死は重たいものだったと思うよ。
それに、自分が死ぬことで人を助けたりお家を守ったりした武士だって多くいたと思うよ。
そうなると「大我」 による切腹だから・・きっと西洋の神様だって喜んで天国に迎え入れたんじゃないかな?」
「え? そんな切腹なんてあるの?」
「あるよ! 清水宗治さんを知らんのかね?!」

https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/
「ん? 誰それ・・?」
「ええええ、知らんのかい?! 秀吉の毛利攻めで備中高松城が落とされようってときに、最後まで主家を裏切らず、しかも家来5千名の命を救うことを条件に切腹した城主だよ。
でね、最後に舟の上で能を舞い、辞世の句を読んで切腹したんだけど、その立ち居振る舞いの美しいこと(←見てきたように言う私)
その見事さに敵味方の全員を感動させてしまったって有名な人だよ~!!」
「し、知らんがな~。

敬虔なカソリック信者で、西軍の石田三成に人質に取られそうになったとき、それを拒んで、家に火をつけて家来に介錯させたんだよね。
キリシタンの教えを守って自害はしなかったけど、あれだって実質的には自害したってことだもんね~。」
「そうだったね~。 昔の武士たちは、常に死を覚悟した生き方をしてたけど、決して軽く考えてたんじゃないと思う。
死ぬのは自分のためじゃなくて、誰かのためだったことが多かったんだと思う。」
なるほど、現代人の自殺とは違うわけだよなあ、とそこで二人で頷き合ったものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新宿駅でゆかりちゃんにまで、飛び込みさせようとしちゃった人(霊)は自分が救われかったのだろう。 何があったのかは知らないが・・。
誰かに憑依して殺そうとか、悪気があったわけではないかもしれない。
ただ単に自分の苦しさから逃れようとするため。
でも、そういったときの心はものすごーく狭くなってしまっている。
現実的なことを言えば・・電車遅延だとか、死体のパーツを集める駅員さんなど、他人に及ぼす迷惑についてさえ考えるゆとりもないのだろう。
おそらく、そんなことすべて・・何も見えなくなってしまっているのだ。
一方で、昔の切腹作法を読む限りででは、「極力人に迷惑をかけないように」の配慮がなされていたことが思い当たる。
「人間の命は生まれた時から確実に死に伺っている限りあるものでしょ、生を受けた瞬間から人は生きながら死につつある (dying)ってわけで・・・ 私はカトリック教会で、人間生命の尊厳や価値というのを教わったんだよ。
それは人は孤立した個人として生きるのではなくて社会だったり家庭、共同体などと連帯して生きるべき存在となるように生を受けたんだって。

「そこから、挫折と苦悩を 乗り越えて生きる意味と価値を 実際に感得することが生を受けた使命でもあるって。
それにはね、自分の関わる人間関係の中で理解され愛し愛されるとき、それをひとことで言っちゃうと、誰かのために生きるとき、生きる意味を見出して自分の生を充実したものにすることができるそうだよ。」
それが人の尊厳であり、だからこそ人の尊厳をぶち壊すこと、死を与えることが罪とされるってわけなんだね~。
私はそのときはじめて「自殺が罪」の深い意味を知った気がした。
「うーーん! それより、私は人の想念に引きづられそうになっちゃうとこ、なんとかしなきゃ!
今一番の課題だなあ、もっと自分を強く持つなる方法を学ばないとなんだよな~」と、ゆかりちゃん。
「とにかくね、駅のファ~ンて音、あれ、ヤバイよ~! たぶん私だけじゃなくって、疲れてぼーっとしてるときなんか引きこまれやすい音だと思うから、気をつけてよ~!
それに、ピーン、ポーンという音が一定の間隔で流れてたりするけど・・あれも、おかしな催眠効果を誘発するのかもしれないから気を付けた方がいいよ!」

目を覚まさせてくれるような車のクラクションの音はいいそうだけど、大きな駅で聴こえてくるファーンや断続的なピーン、ポーンは・・あまり良くないそうだ。