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沙門空海唐の国にて鬼と宴す_読書感想文

沙門空海唐の国にて鬼と宴す を読んだ。


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夢枕獏さんが、17年かけて書き上げたってことだけど、かなり豊富で盛沢山な内容で面白かった~♪

804年、空海が遣唐使として長安に渡るところから物語は始まるんだけど、

中身は、「空海&密教」のみならず、

長安における様々な民族、宗教、楽や書、李白をはじめとする詩、さまざまな仏典からの引用、

さらに歴史においても、玄宗肯定と楊貴妃の時代の、安禄山の変
さらに遡って、項羽と虞美人、もっと遡って、綿畑の中で、始皇帝の時代の 俑 (よう)を発見したり・・と、実にワクワクさせてくれる。


ちなみに、始皇帝の時代の 俑 (よう)というのは、これのこと
   ↓
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https://rekijin.com/?p=14349


何千体もあるのだそうだ。 しかも実物大で精巧に出来ていて、一体ずつ顔立ちが違い、明らかに異国人の顔立ちも多くあるんだとか。
始皇帝、死後の世界でも地下帝国を築いていたのか?


こういった、ファンタジー・オカルト要素もいっぱいでつまってるミステリー仕立てのところが、日本版、ダ・ヴィンチコードとでもいったような作品だろうか。

中国の古代史からみても、民俗学から見ても、また、書や詩などから見ても、それぞれ楽しめる気がする。


さて、今回のブログは、My読書感想文みたいな内容で書いてみようと思うんだけど・・
完全にネタバレにもなりそうなんで、もしも、これから小説を読もうという方で、ストーリーを知りたくない!と思う方は、スルーしてくださいませ。




<空海について>

空海については、私も前々から興味があったので何度かブログにアップしてる。

空海さんのヒストリーのブログ記事
   ↓
空海とシュタイナーの関連性


空海さんは、もともとはエリート官僚養成機関で儒教を学んでたんだけど、20歳くらいのときにドロップアウト。

理由は、彼の学びたかったものが、「宇宙の理や命」についてだったから。
となると・・そりゃあ、儒教を学んでる場合じゃないよなあ~、やっぱ仏教だよ!

ってことになる。

儒教も道教も仏教も・・「教」という字がつくと、「宗教」を連想させてしまうし・・
特に私たち現代人は、宗教と聞くと、「人々を救済するため」と思いがちだけど、

たぶん、若き日の空海さんは、人々の救済するという意識よりも、知識欲だったような気がする。

それも、「宇宙の理や命を知る」といった、根源的で壮大なもの。

宇宙とは、
「宇」は「天地四方上下」(三次元空間全体)
「宙」は「往古来今」(過去・現在・未来、時間全体)
「宇宙」で時空(時間と空間)の全体を意味する。

また、「宇」は「天」、「宙」は「地」を意味し、「宇宙」で「天地」(あめつち)のことを表す。
(中国の戦国時代の書物・「尸子巻下」や漢代の書物・「淮南子斉俗訓」に記されているそうだ。




学問の選択肢がほとんどなかったような時代、彼が仏教へ向かうのも自然だっただろうなあ、と思う。


ところが、仏教といっても当時の仏教といえば、
南都六宗(なんとりくしゅう)といわれた、バリバリの奈良仏教の全盛時代! 

こりゃ、違うだろ~よ!


ようやく、空海さんがたどり着いた仏教が、→大日経

だけど、日本ではほとんど学べない。
当然ながら、これ以上学ぶには、留学するっきゃない!ってことになったんだよね~。

それが、「密教」


さて、夢枕獏さんが描く「空海」さんは、私たちと等身大の人間像に近く描かれている・・・(←私はそこが好きなんだけどね~)

空海さんて、どんなタイプの人?

書においても文においても抜きんでた才があり、各方面への膨大な知識がある人
それでいて、屈託ない笑顔で人を惹きつけてしまう。

人種や身分や立場といったものへの偏見も無ければ何のこだわりもない。
常に静かで穏やか、それでいて自然体で真摯な雰囲気を醸し出す人。

「不思議な男だな、おまえは!」・・というのが、相棒の逸勢さんの口癖だけど、多くの人に、同じことを言われる人だ。


本文中には、このように書かれている。
  ↓
「様々 な もの、 時 には 互いに 矛盾 する もの すら が、 その 矛盾 を 抱え た まま、 同じ この 男 の 内部 に 同居 し て いる よう なので ある。  
智 と 野性。   上品 と 下品。   聖 と 俗。」


矛盾するもの、相反するものすらが、自然に一体となっちゃってる人物。
だから、また面白い!


一方、空海さんの友達、橘逸勢(たちばなのはやなり)さんという人物がいる。

<橘逸勢(たちばなのはやなり)について>

この人もまた、留学生となって空海とは船の中で知りあって友達となる人。
ごく、フツーの人として描かれている。

エリート官僚を目指している人で、留学の目的は、当然、さらなる「儒学」を学ぶこと
海外留学で「ハクをつけるため」(←作中で本人が空海に語ってる)

これ、現代でも、アメリカ留学する人の中には、こういったタイプがいるんで、現代とダブって面白いのだ(笑)

ところが、逸勢さん、留学後の一番の悩みは語学力

もちろん、日本にいたときはエリートだっただろうし、日本で唐語は相当に学んできたはず。

ところが、現地に着いたとたん、通じない! わからない!(←これもよくある話(笑)

現地の人が誰でも、正しい美しい発音でゆっくりしゃべってくれるわけじゃないから。
日常の生活程度なら言葉の問題はないけど、専門分野を学ぼうとすれば、言葉の問題が壁になって、ついてけない!ってことになる。


最終的に、逸勢さんは語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、帰国後は、書の一人者となったそうだ。
後に書に秀でた三筆の一人となっている。 (他の二人は、空海・嵯峨天皇のこと、3人とも同じ時代に生きた人だ。)


逸勢さん、ダメじゃん!と言いたいとこだけど、いかに日本で優秀な人であったとしても、これは当然の成り行きだろう。



わずか2年程度の留学で、ネイティブ同様に言葉を操れる空海の方が、フツウじゃないのだ。

空海さんの最も優れた能力は、語学力にあったのかもしれない・・。


それでも、空海さんが唐で一番時間を費やしたのは、梵語(サンスクリット語)を学ぶことだったそうで、
実際に、青龍寺の恵果和尚に密教を学んだのはほんの3か月程度に過ぎないという。

梵語(サンスクリット語)↓
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ようするに、唐語だけでは不十分で、インドから入ってきた経典、サンスクリット語も理解できなければ、
言葉から伝わる機微をキャッチできないということだろう。

たとえば、シェークスピアを日本語翻訳で読んだだけで理解したのと、原文も併せて読んで理解したのと理解度が違ってくるようなものかもしれない。


たしかに、空海さんは、天才・神童だったけど・・それでも語学の習得には時間を費やしている。
たぶん・・日本にいたときから、唐語だけでなく、サンスクリット語もある程度は独学してたのかもしれない。

だからこそ、青龍寺でほんの数か月で密教を学ぶことができたのだろう。


あ、そうそう・・
一緒に留学した最澄さんは通訳を同伴しての留学だったそうだ・・これだけでも、密教の理解度が違ってしまったのは明白だろう。


それほどまでに、語学は重要。
しかも、決してテキストブックだけで学べるものではないので、一筋縄ではいかない。
現地に行って、しかも多くの人たちと話すことで身に着けていくしかないのだ。

橘逸勢さんが、苦労したのも・・よーーくわかる(笑)


ところで、
橘逸勢さんという人は、どんな人だったのか?というと、

「哲学的 な 思考 よりは、 事実 や 現実 に 即し た 事象 や 知識 の 方 に、 逸 勢 の 興味 は ある」・・と書かれている。

彼の目標は、朝廷で重く用いられる立場になること。

そもそも・・儒学というものが、本文中から引用すると、
   ↓
「〝儒教 には、 宇宙 や 生命 について の 答え が ない〟  儒教 という のは、 結局、 極論 すれ ば 俗世 の 人 の 作法 の 学問 でしかない」

また、

「儒学では〝怪力乱神 を 語ら ず〟という こと が ある。  
現代 風 に 言え ば、 UFO だの 幽霊 だの 超能力 だ の という こと について は 語ら ないという意味。」



でも、空海さんと逸勢さんは仲がいい(笑)
常に二人一緒に、事件を解決していく相棒なのだ。


二人の会話をみていると、まるで、「陰陽師」の中の、安倍晴明と源博雅を彷彿とさせるシーンが多いんだけど、
キャラはまったく別。

逸勢さんは、どっちかというと自己顕示欲が強くて、バカを見下すタイプ。 出世欲バリバリ。
でも・・なぜか空海さんだけは好き! なぜか惹かれてしまうらしい。


逸勢さんみたいなタイプを俗にいうと、自分の才を鼻にかけた「嫌なヤツ」ってことになるんだろうけど・・

作中の言葉を借りると
   ↓
「情 よりも、 理 によって 言葉 を 選び つつ 話す 人間 の よう で あっ た。  
しかし、 その 理 の 裏側 には、 胸 が 苦しい ほどの、 情 が 溜め られ て いる ─ ─ その よう に 見え た。」


これは子厚さんという人物について書かれた箇所なんだけど、そのままそっくり逸勢さんにも当てはまるような気がする。



<長安という街>

ニューヨークは人種の坩堝(るつぼ)なんて言われるし、アメリカ人からも、「NYはアメリカというよりも、別の都市だよ。」って言われるけど、この当時の長安もそんなカンジだったのかもしれない。
いやいや、たぶん、それ以上に(笑)

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吐蕃(チベット),  西 胡(イラン)、大食(アラビア)、天竺(インド)、トルコ、ウイグル、さらに少数民族が同居する街で、
道教、仏教、密教、ゾロアスター教、マニ教、景教(ネストリウス派、キリスト教)、清真教(イスラム)が存在し、


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さまざまな物品が溢れている。
作品中でも、頻繁に瑠璃の杯、葡萄酒を飲んでるし、
西洋風の革靴を履いて歩くのも、当時のファッションとしてあったそうだ。

おそらく、この当時においては、世界一の都だったことだろう。



文中からの引用
  ↓
「革 の コート を 着、 膝 まで ある 革 の 長靴 を はい た 胡人 が 前 を 歩き、 横手 の 酒房 の 中 からは、 胡楽 の 音 まで 聴こえ て くる。   胡 という のは、 狭く とらえれ ば、 イラン の こと で ある が、 広く は、 西域 の こと を 指す 言葉 で ある。」

音楽も踊りもさまざま。

空海と逸勢は、始めて胡旋舞という踊りを目にしてびっくりする。

西域の碧眼の娘たちの踊りなんて・・日本の舞しか見たことない人々にはかなりの、カルチャーショックだろう(笑)

『通典』 の 巻 一 に、 胡旋舞 について 、 「舞、 急転、 風 の 如し。 俗 に これ を 胡 旋 と 謂う」と、書かれているそうだ。

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これだけ、さまざまな異国人や異国文化が入って来るところであり、異民族が持ち込んでくる様々な 宗教も入ってきていたのに、 そのすべてが政治レベルで保護されていたそうだ。

また、
しかも、異国人であっても、試験の成績 さえ よければ 官人として採用され、高い地位にまで登ることは可能だったという。

たしかに、国際都市といえども、外国 籍 の人を平気で 国会議員にしてまうような国は現代にも見当たらない。


その一人が、玄宗皇帝の時代に、遣唐使としてやってきた阿倍仲麻呂さんだったのだ。

この物語のキーパーソンともなってる人でもある。

映画化の中では、この人が演じてたらしいけど・・
    ↓
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いったん遣唐使となって留学してしまうと、20年は日本に帰れないことになってる。

その上、優秀なあまり官吏にでもなって皇帝にでも気に入られちゃうと、なかなか帰国させてももらえない。
帰国許可が出たところで、船が来るかどうかもわからないわけだし・・
(そのときの政治情勢によって船が出るかどうかもわからないし、また船が出たところで無事に到着する確率は半分以下だった時代)

この時代の留学は、命がけ、二度と帰れないことも覚悟の上。

阿倍仲麻呂さんは、唐名を「晁衡」(ちょうこう)といったそうだけど、ついに晁衡のまま帰国できず、最後は、赴任地(現在のハノイ)の総督として果てたそうだ。


当時の唐は文の国と言われていて・・・書と文章の国だった。
つまり、書と文章で相手(人間も相手国をも)を判断する。

そんな国で異国人でありながら高官に上り詰めた、阿倍仲麻呂(晁衡)さんが、どんだけ優れた人だったのかも想像がつく。

彼は満足な一生だったんだろうか?
唐に来ちゃったことを後悔したんだろうか?

優秀な人で大出世する=幸せな人生・・と必ずしもならないところが、人生の面白いところでもある。




<幻術、呪法について>

まさに、夢枕獏ワールドに欠かせないのが、幻術、呪法などのオカルトチックな事柄だ。

しかし、これはフィクションの話ではなく、どれも、ちゃーんと古い文献にも載っている話。

●「植瓜 (しょっか)の術
これは、「陰陽師」の中にも出てきてたし、岡野玲子作「陰陽師」の中でも取り上げられている話だ。
(たぶん、夢枕獏さんが、かなり気に入ってる部分なんだろう。)

もともとこの話は「今昔物語」にも載っている。<外術(げじゅつ)(を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十>
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http://www.pictio.co.jp/old/3005

荷車にたくさんの瓜を積んでいる男が、美味しそうに瓜を食べていた。

そこに、一人の老人がやってきて、喉が渇いているので、1つ瓜を恵んでくれ、という。
男が断り、厄介払いをしようとすると、老人は、それなら、吐き出した種だけでもくれ!という。
「捨てた瓜の種なんか、勝手にもってけ!」と言われると、

老人はその種を、人々が見ている前に土をならして埋める。
「ほーれ、ほーれ、早く芽をだせよ! そーれ、芽が出てきたぞ」
というと、本当に小さな芽が出てきた。

「そーれ、そーれ、大きくなって葉になる」
というと、今度は葉が開く。

さらに
「弦が伸びる。」
「瓜がなる。」

と、老人が言うたびに、その通りになっていく。

瓜の木はあっという間に成長し、見事に育った瓜をたくさんつけていた。
見ていた見物人たちは拍手喝采、
老人は、たくさんの瓜をもいで、見物人たちにも分け与える。
断った男たちにも分け与えた。

自分は1つの瓜をもらって去っていった。
老人が去ったあと、男たちが荷馬車をみると、荷馬車にあった瓜がすっかりなくなってしまっていた。



これは、幻術ともいわれるもので、「術」というよりも、現代風にいえば、人の心理をたくみに使ったマジックのようなものかもしれない。

このシーンで、空海がこんなことを言ってる。

「言葉 に まどわされている。 あの言葉によって、 皆は術をかけられ、 芽が出てきたと言わ れれば、 芽が出てきたと、葉が出てき たと言われれば、 葉が出てきたよう に、思い込んでしまうのだ」


知識 は、 人 を 明るく も する が、 逆 に 人 を 盲目 にも する こと が ある という こと だ。
唐語 など 知ら ね ば、 術 には かから ぬ。 瓜 の 種 を 蒔き、 そこ から 芽 が 出、 花 が 咲い て、 瓜 の 実 が なる の だ という こと など 知ら ね ば、 術 には かから ぬ


老人の話す言葉で人は操られていたということだ。 

そして、瓜は種子を蒔き、芽が出て花が咲いて身がなることをしっているから操られたということだ。

唐語が通じない相手で、瓜がどうやってできるか知らない人なら、決して幻術にはかからない。


でも、逸勢さんは反論してたけど・・
「しかし、 おまえ は、 知っ て い て かから なかっ た のじゃないか。」



●呪術・・人を呪う術のこと。 実際、これは世界各国に古くから存在する。

古代中国にある主な2つはこちら
   ↓
★蠱毒(こどく)とは、動物を呪に使うもの。

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たとえば、 蟇蛙 でも 蛇 でも、 同種 の 生き物 を 無数無数 に 捕え て き て、 大きな 瓶 の 中 に 入れ て 蓋 を し て おく。  
餌 も 水 もやら ず に そのまま に し て おく と、 やがて、 彼等 は 共 喰い を 始める。 そして、 最後 に 一匹 が 残る。  
その 最後 の 一匹 を呪法 に 使う。 残っ た 一匹 の 精霊 を 使役 霊 として 利用 し、 相手 の もと に 送っ ても いい し、 その残っ た 一匹 を 殺し ながら 行なう 呪法 も ある。  

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もっと大きな動物が使われることもある。
猫 の 蠱毒 について は、 清 の 時代、 楊 鳳 輝 の『 南 皐 筆記』 巻 の 四「 蠱 毒 記」 に記されているそうだ。

この作中では犬が使われていた。

犬を首だけ出して埋めてしまい、何日も食事も水も与えず餓死させる。
しかも、犬の目の前で美味しそうな肉を見せ続けるのだそうだ。

なるべく、残虐に憎しみや怨念を煽って惨殺したものを念として使うということらしい。

当時の日本 では、 この 蠱毒 の 法 を 行なっ た との 疑い を かけ られ て失脚 し た 貴族 も あった。

しかしなあ、今じゃこんな法律は無いから・・そもそも信じられてないわけだから、呪術で殺人を犯したとしても無罪なのが怖い。


★ 魘魅(えんみ)・・魘魅 の 法 という のは、 人形 だの 紙切 だ のを 利用 し、 それ を 相手 に 見立て、 呪法 を 施し呪い を 相手 に 届ける 法 で ある。
一般 に 知ら れ て いる 丑の刻参り も、 その 魘魅 の ひとつ 。

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http://jonny.click/kyougaku/35430

ポイントは、呪う相手の代わりに藁や紙の人形を使うので、その中に相手の髪の毛、唾液、爪、血などを入れるといいらしい。


蠱毒(こどく)や魘魅(えんみ)ほど、手間をかけるものではなく、もっとお手軽なものに、邪視(じゃし)というのがある

★邪視
悪意 や憎しみ を もっ て 誰 かを 眺める だけで、 その 誰 かを 病 に かけ たり、 時には 死に 至ら しめ たり する こと の できる 眼 ─ それを邪視というそうだ 。

これ、結構世界中にあるらしくて・・
邪視_Wikipedia

トルコには、邪視よけのお守りとして、ナザール・ボンジュ(nazar boncugu) というものがあるらしい。

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青いガラスに目のような模様、こうやって木に吊るすらしいが・・今ではトルコ土産にもなってるそうだ。

日本で「生霊」と言われるのとも似てる気がするのだが・・。


さて、こういった呪いをかけられてしまった場合、それを跳ね返すためには、専門家(今でいう霊能者など)にお願いすることになる。

当時だと、わりと近所に多くいた道士(道教の術師)にお願いするというのが一般的だったようだ。

しかし、相手がもっと強力で、そこらの道士に手に負えない場合は、青龍寺にお願いしたらしい。
(青龍寺とは、当時1番の密教寺で、そのトップにいたのが、恵果和尚)

物語の中では、まずは青龍寺の僧侶が数名出向いて、お祓いするだが、それでも払えず、さらに青龍寺の鳳鳴という弟子が出向いていくことになる。

鳳鳴さんは青龍寺においてのナンバー2か3あたりの実力者で、しかもチベットから来た留学生。

ここは、鳳鳴さんが、のちにチベットに密教を持ち帰って、従来の土着信仰のボン教に密教を融合させた、チベット密教になっていくんだろうなあ・・なーんて想像させるとこでもある。

ところが、その鳳鳴さんも、また失敗に終わってしまう。

鳳鳴さんは、見事に相手の呪術を封じ込めてたんだけど、プロテクトしている相手に自殺されてしまったのだ。

いくら外部から侵入してきたものをとってあげたところで・・
本人の心を救えないことには、どうにもならない。

「人 の 体内 に 潜む餓蟲 を、 いくら とっ て やっ た ところ で、 それ は、 心 を 救っ て やる こと とは、 別 の ことなんです。」
と鳳鳴さんはそう言って、深~く反省していた。

*餓蟲というのは、蠱毒で使われてるような、怨念等の強烈なネガティブエネルギーのこと

恐れや不信感で弱ってしまった心は、まさます餓蟲を入りやすくしてしまう。
それを取り除いたところで、弱まってしまった心は、自ら死を選ぶようになってしまうのだろう。

そうなると、敵が手を下さなくても自滅してしまう。

つまり、

本人の持つ恐れや不安、猜疑心といったネガティブパワーに、外からの呪術パワー(これも強力なネガティブパワー)が合わさったとき、病気や死を招くことになる。



それならば、まず、恐怖心や不安を持たなければいいんだろうけど・・自分が呪詛されてると思えば、なかなか、そうはいかないものだろう!


密教では、魔を払うときに使う真言はいくつもあるけど、孔雀明王の真言はよく使われるのかもしれない。

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元来はインドの女神マハーマーユーリー(महामायूरी、Mahāmāyūrī)
孔雀は害虫や毒蛇などを食べてしまうことから、魔を払う大護摩で使われてるようだし、文中にも登場する。

たしか、陰陽師の小説の中にも出てきた気がするし、夢枕獏さんのお気に入りなのかも。

アニメでも孔雀王ってあった気がするんだけど・・それだけパワフルな明王様なのだろう。





<不老不死の術>

こんなん、本当にアリかよ!と思うんだけど、物語中では、楊玉環を救い出すため、一度彼女を仮死状態にして死んだことにする必要があったため、尸解 仙(しかいせん)という術が用いられることになる。

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文中からの説明を引用
   ↓
天仙、 地 仙、 尸解 仙 が それ で ござい ます。

生き た まま、 生身 の 身体 で 不老不死 となり、 天 へ 昇る ─ ─ これ が 天仙 で ご ざり まする な。
地 仙 も また、 生き た まま 仙人 と なっ た もの で ご ざり ます。

さて、 では この 最後 の 尸解 仙 (しかいせん)で ご ざり ます る が ─ ─」  
「これ は、 仙人 の うち でも、 一番 位 が 低う ご ざり まし てな。
修行 が いたら ず、 生身 の 肉体 を 抱え て い ては、 生き た まま 仙 と なる こと かなわ ぬ 者 が、 なら ば、 魂 だけでもと、 死し て 天 へ 昇り、 仙人 と なっ た もの が 尸解 仙 で ご ざり ます ─ ─」


これは、完全に「道教」から伝えられてるようだね。

仮死状態にして死んだと見せかけて、あとで息を吹き返すってのは・・なんだか、ロミオとジュリエットでもあったようだけど・・。
あれは、術じゃなくって薬だったが・・。



<空海の学ぶ密教とは>

この小説の中の説明は、すごく端的にわかりやすく書かれている。

まずは、空海自身が面白いことを言っている。

● 密教 という のは、 人間 を、 その 善 も 悪 も 何もかも を 含め て、 宇宙 を 丸ごと 肯定 する ため の 思想 体系 で ある と いっ ても いい。

「密 の 教え という のは、 まず、 この 天地 の あらゆる こと が ら を、 肯 と、 自ら の 魂 に 叫ぶ こと なの だ。
この 宇宙 に 存在 する 全て の もの を、 丸ごと この 両腕 の 中 に 抱え込む という こと なの だ よ



●たとえば筆の握り方、紙の漉き方、川の水をせき止める方法、深い河に橋をかける方法、唐の都の制度
そういったことすべてを含めたものが、密なのです。


空海自身もまた、青龍寺で仏法を学んだだけでなく、最新の土木技術、建築設計、灌漑工事も学んだことは確かで、日本に戻ってから、こういった才能も発揮している。

空海に言わせれば、これもまた密の一部になるのだろう。
机に座って学ぶだけでなく、実に雄大、宇宙的。


●「美 と醜」について

「本当に、 美 や 醜 は、 この 宇宙 には ない の です か」

「あり ませ ん。 宇宙 には そういう 言葉 は あり ませ ん。
ある と すれ ば、 それ は、 宇宙 では なく ひとりひとり の 人間 が 持っ て いる もの なの です」


「それ は、 人間 に 属性 を 持つ 言葉 の ひとつ に すぎ なません。
人 の 言葉 では なく、 天 の 理 を 有する 言葉でで 表現 できる もの が、 この世 に 存在 する もの なの です」


「ある 花 と、 ある 花 とを 比べ て、 こちら の 方 が 美しい とか、 こちら の 方 が 美しく ない とかいう 言い方 は、 天 の 理 を 有する 言葉 の 中 には あり ませ ん。
天 の 理 を有する 言葉 で 言え ば、 この 花 の 花びら は 四 枚 で ある、 こちら の 花 の 花びら は 五 枚 で ある、 こちら の 花 は 白い、 こちら の 花 は 赤い、 そういう 表現 に なる の です。」

「天 の 理 を 有する 言葉 で 表現 できる もの」
は、 まず、 数 です。 それから、 堅い とか、 柔らかい とか、 冷たい とか、 熱い とか、 さらに は 正しく 使用 さ れる 大きい とか、 小さい とかいう 言葉 の こと です」

「人間 に 属性 を 持つ 言葉 には、 普遍性 が あり ませ ん。 美 とか、 醜 とか も そう です が、 好き とか、 嫌い とかいう 言葉 も、 そういう 言葉 の ひとつ です」


わおう!
完全に、サイエンスですね~(笑)



空海さんは、逸勢さんにも、同じような説明をしている。

「たとえば、桃の花と犬の糞、どっちが善くて悪いものなのだ? 
桃の花は美しく良い香りがするから善で、犬の糞は悪いものか?

それは人間の都合、人間の理なのだよ。
天からみれば、同じなのだよ。」


●「密 で 言え ば、 基本 的 には、 この 天地 の 諸相 に 善 とか 悪 とかいう 区別 は ない。
その かわり に 曼陀羅 と 法 が ある


密教では、言葉で教えるよりも、曼荼羅(絵でみて学ばせる)を使う。

胎蔵界曼荼羅
   ↓
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金剛界曼荼羅
   ↓
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文中の説明を引用すると、

●密教には、 金剛界、 胎蔵界、 と 呼ば れる ふたつ の 体系 が それ で ある。  
極めて 簡略 に 記し て おけ ば、
精神 原理 を 説く 金剛頂経 系 の 密教 が 金剛界、
物理 原理 を 説く 大日経 系 の 密教 が 胎蔵界
と 呼ば れ て いる。  

金剛界 の 密教 は、 金剛智 という 天竺 の 僧 が 伝え た。 天竺 僧 ─ ─ つまり、 インド の 僧 で ある。  
胎蔵界 の 密教 は、 やはり 善無畏 という 天竺 僧 が 伝え た。  

天竺 本国 に あっ て、 別々 に 発展 し て き た 両部 の 密教 の 体系 を、 恵果 は、 その 一身 に 受け て いる。

それが、天竺から伝わった2つの密教であり、それをそっくりそのまま、空海さんが受け継いで日本に戻ってしまうと・・
中国では後継者がいないため、密教は廃れてしまうことになる。




中国から伝わった仏教なのに、中国はとっくに仏教国じゃなくなってしまっている。
日本は、いまだに・・いちおう・・真言宗として空海の伝えた密教は残っている。


もうひとつ、言葉について語られている部分がある。


●「この世で一番大きなもの、一番ちいさなものは?」
空海は、両方とも言葉だと言っている。

「どの よう な 大き さの もの も小さなものも、 言葉 で それ を 名づける こと によって、 名 という 器 の 中 に おさめる こと が できる から です」

ここらへんも、陰陽師の中に出てきた、言葉や名前の持つ「呪」について、安倍晴明が語っていたこととも、ダブるような内容だ。
空海と逸勢さんもまた、似たような会話シーンが出てくる(笑)


「言葉について」は、以前のブログにもアップしたことがあるんだけど・・

顕教と密教の違い
   ↓
魯山人のエピソードと密教

始めに言葉ありき_言葉について考える

顕教(従来の仏教)と密教の大きな違いは、

顕教が文書にして言葉で説いた教えに対して、
密教は「心から心に伝えることが大切であり、文章によって伝えることのみを貴いとはしない」としている。


宇宙や哲学的、スピリチュアル的内容を含むものを、言葉だけでは到底伝えることが出来ないだろう。

たとえば、以前のブログにもアップしたけど・・理趣経、これなんか誤解されやすいだろう。
(後に、空海さんと最澄さんを仲たがいさせてしまう原因ともなった経典でもある)

僧侶の戒律として・・女犯(にょぼん)、飲酒、肉食(にくじき)というものがあって・・
唐のこの時代でも例外ではなかったそうだ。
むろん、隠れて行う僧侶もいたけど、表立ってはできないのが常識。

なのに、理趣経には、大楽(たいらく)の法門、「十七清浄句」といわれる17の句偈のそのトップに・・

妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は清浄なる菩薩の境地である
と説かれている。

この作品中にも、女は好きか?と聞かれた空海さんは、
「妙適(みょうてき)のことですか? あれは、たいへん良いものですね。」と答えていたけど(笑)

それを誤解して捉えてしまったら、まったく別の教えになってしまいそうだ。


私は、この理趣経を最初に目にしたとき、ひどく驚いたし、また感動したんだけど・・

だけど、これを言葉で延々と説明することは、ひどく難しい。


唯一、私に説明できるとすれば、昔みた映画、バベットの晩餐という映画の世界だ。

バベットの晩餐をまた見て思うアートや宗教のことあれこれ

貧しい片田舎、清貧と宗教(キリスト教)心で生きている村人たちに、パリの最高の食事をプレゼントする。
快楽は罪深いことと信じている村人は、美味しいものを味わうこと、笑うことすら罪なのではないか!とびくびくしている。

しかし、次第に酒と料理を堪能するにしたがって、村人の舌は快楽を味わい、精神も満たされていくといったようなストーリーだった。
こうゆうのを、清浄なる菩薩の境地って言うんじゃないかな!と(笑)

もちろん、映画を観たことのない人にはわからないだろうし、映画を観たとしても、違う感性を持ってみれば、まったく違ったものになってしまうだろう。
到底、私の感動を伝えることはできない。

そうゆう類のものではないかな、と思うのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そういえば、

仏教徒の中には、
ブッダは、「死後の世界については説いていない。」

「ブッダは死後の世界を否定された」
 という説を聞いたことがある。

どうやら、これは・・
パーリ仏典経蔵中部に収録されている第63経。『摩羅迦小経』(まらかしょうきょう)、『箭喩経』(せんゆきょう)の中に書かれているエピソードに由来するらしいのだ。

ある哲学大好き青年が、ブッダの弟子となり、

「如来(にょらい)の死後はどうなるのでしょうか?」
と尋ねたそうだ。

*如来というのは、簡単にいえば解脱した人のこと

それに対してブッダは答えず、
有名な「毒矢のたとえ」を説いたという。

ある人が矢で射られて、毒矢が刺さったので、みんな驚いて抜こうとした。
しかし、その人は、
「ちょっとまった。 この毒矢はどこから飛んできたのだろうか?
矢を射たのは男か女か? この毒の成分は何だろうか?」

と、毒矢を抜かずに調べているうちに、死んでしまった。

これを、仏教界では「無記」と呼ぶそうだ。
「ブッダが答えなかったということ」



これを、どう受け取るか?

まず、ブッダが答えなかった=死後の世界を否定したってことではないはず(笑)

これについても、さまざまな解説があって読んでると面白かった・・・。

その1: 「死後はどうなるのか」という問いは、単なる知識欲を満たすための戯論(けろん)に過ぎない。
仏教の根本となる救いとは関係ないことであり、戯論を問題にしているうちに人生が終わってしまう。
そんなことを考えているより、もっと他に大切なことがあるでしょうって意味だった。

その2: 「答えないということは、わからないこと」 
「結論が出ず、わからないことは、わからないままにしておきなさい」ということ。
いくら頭の中で物事を考えても、わからないことはたくさんあるわけで、そのうち、何か自分でやっているうちにわかってくることもあるので、それを待ちましょう・・ということではないだろうか?




このように、人によって捉え方は違ってしまうということだ。

私としては・・ブッダはこの青年の弟子だけに理解できるように、「毒矢のたとえ」を話たんだと思うんだけど・・。

もっと、この青年が成長して多くを学んだあとだったら、別の答えをしたかもしれない。


なのに~それを、こうやって万民向けの本にしちゃうから、またややこしくなる(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実際にブッダは、35歳のときに悟りを開いただそうだ。

ところが、ここからが、ブッダの不可能への挑戦のはじまりだったという。

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なぜって、悟りを開いたのはいいけど・・その内容は、誰も想像もできないような内容だったし・・
それを、言葉で正しく伝えなければならないってことは、もうはじめから不可能に思われたんだとか。

間違った言葉で導いてしまえば、人々を導くどころかかえって破滅させてしまうかもしれない。

しかし、言葉にしなければ、まったく伝えることはできず、ブッダ本人の胸の内で終わってしまうのだ。


そこから、どうしたら真実へ導くことができるかといつ、ブッダの不可能への挑戦が始まったのだ。

真如という言葉があるが、これは真理とほぼ同じ意味らしい。
    ↓

仏教では、仏教で教えられる真如(真理)が、言葉では表せない、説明し尽くせないことを、言語道断と教えられていました。

仏教では真如に「離言真如(りごんしんにょ)」「依言真如(えごんしんにょ)」があります。
真如とは、本来、言葉で説明し尽くすことのできない、言葉を離れたものです。これを「離言真如」といいます。

真如は言葉で表現できないのですが、言葉に依らねば、伝えることができないので、言葉で真如を表すしかありません。
これを「依言真如(えごんしんにょ)」と言います。

https://1kara.tulip-k.jp/buddhism/2016111246.html



つまり・・言葉にしちゃっただけで、それはもはや、真如とはいえないんだろうけど
それでも、なんとか、何とか言葉で表わそうとされた真如のことを、「依言真如(えごんしんにょ)」と言って・・

それが、仏教の教えとなって伝わってきたってことらしい。

密教がなるべく文献に頼らず、以心伝心を使って伝えようとするのは、本家本元のブッダの意思とも通ずるのだろう。


しかし、こりゃなかなか大変かもしれない。
最近の仏教学でも、「真理を言葉で表せると考えている」、文献学の影響が強いそうだ。

文献学は、原語や、語源などによって、言葉だけで意味を推測しようとする学問らしいけど・・、
たぶん、言葉にとらわれていては、本当の仏教の教えは分からないんだろうなあ。


だからこそ、密教は曼荼羅を使って絵で伝えたり、たとえ話というのも多いんだろうなあ・・・と思う。

むしろ抽象的に、脳で考えず感性でとらえるものなのかもしれない。


<楽の音は花、そして色>

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簫、笛、月琴といった楽器を使って楽が演奏される。

簫↓
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月琴↓
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それぞれの音色を色に例えているシーンがあって、しかも、それを花にたとえてもいる。

その 色 は 花 の 色 の よう でも あっ た。   青い 花弁 の 中 に複雑 な 色あい で 見え て いる 雌蕊 や 雄蕊 の 黄色 や 赤。
ひと 口 に、 青 や 黄色 や 赤 と いっ ても、 それ は 単純 な 単色 では なく、 微妙 に 混ざり あい、 それぞれ の 色 が それぞれ の 色 に 手足 を からめ て 抱き合っ て いる。

楽 の 音 が昇天 し て ゆく ので ある。  
空海 は、 これら の 音 を、 色 や かたち として 見 ながら、 なお、 音 として も 認識 し て いる。


月夜に宴にて、月琴の音色に合わせて、白楽天が漢詩を朗読し、美しい妓生が舞う。

想像しただけで、ゾクゾクするような美しいシーンだ。

ひょっとしたら、言葉で伝えるより、密は、こういった形でも伝えられるのかもしれない。


<般若心経>


文中に般若心境の全文を載せていて、こんなふうに書かれている部分がある。
   ↓

『般若心経』 は、 まず、 この 宇宙 が 何 によって 構成 さ れ て いる かを 説く。
それ は、 五蘊 で ある と『 般若心経』 は 言う。   色。   受。   想。   行。   識。

色 という のは、 物質的 な 宇宙 全て の もの、 存在 を 言う。
受、 想、 行、 識 という 四 っ つ の もの は、 いずれ も 人間 の 側・・・・この宇宙を眺める側 に 生ずる 心 の 動き だ。

つまり、『 般若心経』 は、 〝存在 という のは、 その 存在 する もの と、 それ を 眺める 心 の 動き が あっ て はじめて 存在 する〟   と 言っ て いる ので ある。  

そして、 凄い のは、 それら の 全て が、 実は〝 空〟 で ある と 言い きっ て いる こと で ある。 色即是空 空即是色。

みごと に、 認識 として 完結 し て いる。 美しい。  
しかし、 さらに 凄い のは、 その 完成 し、 完結 し た もの について、

だが、 それ が どう し た。   色 が 空 で ある という その よう な 知恵、 その よう な 美、 あるいは 知恵 の 完結 を、 どう でも いい とでも 言う よう に、『 般若心経』 は、 その 最後 で 高らか に 叫ぶ ので ある。





般若心境の捉え方として、すべて「空」、空は「無」と捉えてしまう人もいるけど(←実際、私も以前はう捉えていたんだけど)
夢枕獏さん説は、まるでそれが、生きる喜びのようにとらえている気がする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C%E7%A7%98%E9%8D%B5


まるでこんなカンジで

column03_awa-odori01.jpg

「ぎゃてい ぎゃてい♪ はらぎゃてい~♪ はらそうぎゃてい~♪ぼじそわか~」って踊りまくってるような・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作者の、夢枕獏さんワールド集大成という気がする作品だった。
(私は陰陽師シリーズしか、読んだことは ないんだけど・・)

さて、映画化されたものは見てないんだけど・・噂では、本の内容とはかなり、違うらしい。

日本版はないんだけど、さっき、中国語版で英語字幕付きをみつけたんで、いちおう、それを見てみよっかな?


<<参考資料>>
空海のサンスクリット学習

梵字は梵語にあらず(言語と文字の関係)

http://tobifudo.jp/newmon/okyo/bontenmoji.html

尸解仙のからくり


https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=41&block_id=63&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E5%A4%A7%E5%BD%A2%20%E5%BE%B9

仙道・道教について

道教における神仙思想の位置づけ――尸解仙の事例を手がかりとして――

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