「信じられない!アンタって、オヤジ趣味ねえ~。」と笑われたことがあるが・・
歴史小説が好きというよりも、たぶん・・私は池波正太郎さんの世界が心地よいんだと思う。
その中で1つ、興味深いものを発見した。
それは、TVドラマ化されたこともある、「剣客商売」というシリーズだったんだけど・・
あ、これこれ!
「品川お匙屋敷」
この中に、小説のストーリーとは、まーーたく関係の無い事が書かれてる箇所がある。
準主役でもある、秋山大治郎という若い剣客の、彼の勘の鋭さを説明する部分なんだけど・・・
これは、TVドラマ化されたものだけど、この右の人のこと↓

江戸時代の話を読んでるのに、いきなり・・その説明が、別次元に話が飛んじゃう部分がある(笑)
そこの部分だけ、抜き出してみる。
↓
彼ほどの剣客ともなると、その感能は、常人とははかり知れぬちからをそなえているといってよい。
理屈ではない。
明治の剣客などと呼ばれた直心陰流の山田次郎吉翁は、かの大正12年の関東大震災を4年前に予知し、これを発表している。
「おそらく大正13年までに、この東京に一大天災、つまり大地震があって、市民の7、8万人は死滅するだろう」
といい、この山田翁の言葉がロスアンゼルスの日本人会の新聞に出たという。
山田次郎吉いわく、
「剣術を、だんだんやってくると感が強くなって、人のことがわかるようになるから、注意しなければいけない。
感が当たるときはよいが、それが当たるとばかりはかぎらぬ。ときには間ちがうことがある。
それに頼ると大変な誤りを犯すことになるから気をつけなさい」
また、いわく。
「ほんとうに、明鏡止水の心境に到達すると、鉄砲の弾丸(たま)も当たるものではない。
心のはたらきは弾丸のはたらきよりもずっと速いからだ。
また、ここにすわっていて、太平洋の波の音を聞くこともできますよ」
また、或る日のこと、門下生某が下谷の清水町に住んでいた山田次郎吉を訪問し、さて、帰ろうとすると、次郎吉翁が、
「もう、10分もすると、M君が来るから、お待ちになったらいかがですか」という。
「先生、お約束でも、なさったのですか?」
「いえ、何も約束をしたわけではないが、30分くらい前に、M君が阿佐ヶ谷から私のところに来るため、出発したような気がします」
果たして、12-3分後に、M君が山田邸にあらわれたそうな。
私は、山田次郎吉なんて人、知らなかったのだが、急に興味を持った。
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山田 次朗吉(やまだ じろきち、1863年 - 1930年)、剣術家(直心影流第15代)。
号は一徳斎。
自流の振興のみならず、諸学校において剣道師範を務め、剣道の研究・著述活動を行い『日本剣道史』等の名著を残した。

江戸時代から明治、大正、昭和5年まで生きた、おそらく、最後の剣豪だったのかもしれない。
●上総国望陀郡下郡村(後の千葉県君津郡富岡村、現・木更津市)に、名主与吉の長男として誕生。
少年期は体力が低く、虚弱であった。
●1884年(21歳頃)、榊原鍵吉に出会い、剣の道を入る。
師となる榊原 鍵吉さんという人、これまた、すごい人だったらしい。
↓

https://edo-g.com/blog/2016/06/professional.html/7
榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、文政13(1830年) - 明治27(1894年)、江戸幕府幕臣、剣術家。 諱は友善(ともよし)。
幕末期に男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務める。
明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。
稽古で長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。
ああ、なるほどね~。
そういえば、池波さんの「剣客商売」シリーズの中で、
秋山大治郎は、まず門弟に、振り棒2000回を振れるようにする稽古をやらせる・・という話が出てくる。
なまじっか、剣の心得がある門弟たちは、あまりの重さ・辛さに・・こんなこと、やってられっか~!と逃げ出してしまう・・
って話が出てくるんだけど、
なーるほど、この実話がちゃ~んとベースにあるらしい。
さて、山田次郎吉さん、
●師が師だけに、次郎吉さんも、すさまじい猛稽古に励んだらしい。
もちろん、振り棒で基礎体力作りは、まっさきにやったことだろう。
さらに、
健吉先生の荒稽古は、大きく強い面打ちで初太刀を取るというものだった。
つまり、いきなり頭をバーンと殴られる稽古。
(もちろん、防具も面もつけてるし、竹刀を使ってだろうが・・)
ところが、次郎吉は「その面を恐れぬ工夫が肝要」であると思いたち・・
つまり、頭に防具があるから、ついつい、平気!と思ってしまうのが、まずいんじゃないか!と思ったらしい。。。
頭を捨てる修行が必要と、毎日幾十度となく頭部を力いっぱいに、柱に打ち付ける修行をはじめる。(←マジかよ~)
回数を重ねるに従って、我知らず打ち付ける力が弱くなると、両手でしっかり柱をつかんで、柱を頭に引き付けるようにして打ち付け・・・幾度か気絶して倒れることも、そして遂には柱の中央が丸く凹んでしまった。
(この柱は・・現在次郎吉の弟子の某氏が保存されているとか)
そのうち、額は甲羅のように盛り上がり、強くなったとか・・
猛稽古をしていくうちに、
次郎吉さんは、さらに、こんなことに気がついた。
竹刀打ちと形とは恰も書道における、楷行草の関係の如きものである。
是を相排し合うべきではなく、兼修すべきものである」・・恐る恐る健吉に向かってこの考えを述べた。
えっと、ちょっと補足すると・・
剣道の修行ってのは、昔は防具なんてつけないし、竹刀も使わない。
↓

木刀を使う。
打ち所が悪ければ、そりゃ、死ぬこともある。
危険極まりないのだ。
そのため、まずは、徹底的に形(かた)というのを学ばされる。(剣道の場合がこれが守備にもなる)
技芸の上達についての言葉で、守破離という言葉がある。
守=まずは決められた通りの動き、つまり形を忠実に守り、
破=守で学んだ基本に自分なりの応用を加え、
離=形に囚われない自由な境地に至る。
つまり形をしっかりと身に付けることではじめて、高度な応用や個性の発揮が可能になるということ
ところが、竹刀なら、まず死ぬ危険はなくなるので、思い切って打ち込み稽古から始められる。
それに、地道に形(かた)をマスターするには、何年もかかっちゃうところを、短縮できる。
たぶん、そんなことから・・・
明治に入る頃になると、竹刀を使ったこういった稽古法が編み出されたようだ。
しかし、形(かた)を失ってしまえば、剣道はスポーツ化していく危険性もあるし(現在は完全にこうなってるけど・・)
もはや、剣道とは呼べないんじゃないか!・・・と、そこには賛否両論あったらしい。
現に、形と竹刀派とは真っ向から別れてしまっていて、流派も別れ、互いが犬猿の仲だったようだ。
ま、それぞれ、一長一短はあるということだけどね~。
榊原先生は、竹刀稽古派だったらしく形(かた)は使わない流派。
そこで、次郎吉さんは、師匠に、
「両方必要なんじゃないの?」・・と言ったわけだ。
「書道における、草書体、楷書体、行書体のようなもので・・全部必要だよね」と。
榊原先生、怒り出すどころか、
そりゃ、いい考えだ!と絶賛して、次郎吉さんが、他の師匠について、形(かた)を学ぶことを許したという。
さすがに大物!
●1894年(31歳)、榊原先生より免許皆伝の目録を受け、直心影流第15代と道場を継承。
●1895年(32歳) 師匠の榊原の死去に続き、父も世を去ったことを機に、東京へ移った。
●1896年、宮家の剣術師範を辞する。
●1901年、東京高等商業学校鍛錬部(剣道部)の師範に就任。
●1904年 道場を本郷区竹町に移し、「百錬館」と名付ける。
大日本武徳会からの入会勧誘を断り、競技的剣道には参加せず、直心影流に専心
その間、
東京高等商業学校、 東京帝国大学、東京帝国大学農科大学、東京府立第三中学校などで、指導を行い、
また、多くの著書も残している。

『剣道集義』東京商科大学剣道部、1922年
『続剣道集義』水心社、1923年
『日本剣道史』東京商科大学剣道部、1925年
『鹿島神伝直心影流』東京商科大学剣道部、1927年
『古代養性論』水心社、1929年
『剣道叢書』水心社、1936年
『剣道極意義解』水心社、1937年
その他にも、まだまだ色々なことをしてる人らしい。
済生学舎に通って医学を学んだり、知人の医師のもとで薬学、整骨術を学ぶ。
警視庁に入って、巡査になったり、焼き芋屋や米屋、煙草屋を開業したり・・・これらの職業は、いずれも長くは続かなかったらしいが・・。
●1919年、雑誌『新時代 第3巻第1号』において、関東大震災を予言。
関東大震災(1923年)の四年前、大正8(1919)年正月の挨拶で、
弟子に『 大正十三(1924)年までに帝都を一大天災、恐らくは大地震が襲い市民の三分の二は亡くなる 』という予言をし、
それが、この雑誌で発表され、震災後に「的中した!」と、人々に驚かれたらしい。
「一徳斎山田次朗吉伝」(昭和6年)」には、関東大震災の当日の様子が、このように書かれているようだ。
↓
自宅(下谷区御徒町)で、友人(菊田慶太郎氏)と卓を囲んで談笑してたところ揺れが襲った。
菊田氏は顔面蒼白となったが、山田次朗吉は、特に普段と変わった様子もなく
「 下腹にウント力を入れなさい 」と菊田氏にアドバイスをし、
自身は立ち上がって部屋のガラス戸が地震で壊れないように電球を外したりと、冷静沈着に予防措置をとっていた。
曰く―――。
《「地震は踊るのが仕事、私達は酒を飲むのが仕事です。 菊田さん、マア落着いて一杯やりましょう」と、
そんな冗談を言いながら今度は階下で焼酎の盃を傾け、且つ静かに食事をとられた。
その内に火の手が見えて来たので外に出られた。
「昔の書物に地震のことが色々書いてあるが、随分平生と異なったことがあるらしい。今度こそ実際に経験して後の世の語り草にしよう」
他の人々がどうなる事かと、おろおろしている内に、こう決心して、次々に起るべき異変を悠々として迎えるべき心構えをされた。
「こうした事は天の為す業だから、人力では如何ともなし難い。家財道具などは出してはならぬ」
こう言われて永年蓄読募集して、無虚数万巻に達した珍貴な蔵書をも、少しも手をつけず、業火の焼くに委せられた。 》
御徒町の自宅に火が迫るなか、他人の救済を続けるために飛び出していき、
家財はもとより、貴重な書籍や、直心影流の伝書類の一切もが焼失してしてしまったそうだ。
それ以降、宗家を廃することにしたという。
実に面白い人だ・・。(笑)
剣豪と言われた人なのに、直心影流の免許皆伝とか、流派とか・・そういったことには、全くこだわりがない人らしい。
家財道具や貴重な書物が灰になることも気にしない。
(なるに任せてしまえばよい!ってことか・・)
そもそも・・巡査になったり、焼き芋屋?にもなったりする人だし、
弟子の時代から、師匠の流派の枠内にとどまらず、他流派の形(かた)までを学んでしまった人のわけだし。
それを、許す師匠も師匠、実に大物だ!
この師匠に、この弟子・・・だから、免許皆伝を与えて道場までも継がせたんだろうけど・・
山田次郎吉の目指したものは、唯一、剣の道。
流派を超えたところにある、剣の道だったのだろう。
彼は、常々こんなことを言っていたそうだ。
「剣術使いは防具を頼りにするから真剣なりきれないで、単なる叩きあいに堕するのだ。
真に生死の際に泰然たる活人物になるには、形によって練らねばならぬ」
たしかに!
防具があれば、叩かれたって大丈夫。
生死をかける必要はない!
このようにして、明治以降の剣道は、スポーツになっていったわけだ。
ずっと前に、剣道・・武士道に関するブログ記事をアップしたことがあった。
↓
武士道と刀のスピリチュアル
殺陣と剣道と四戒
精魂を傾けた名人芸ともいうべき技で刀が作られ、それを肉体と精神を鍛え上げた剣の達人が手にする・・・そんな内容を書いたのだった。

剣豪、つまり・・剣の達人ともなれば、
★家の中にいてさえ、迫りくる危険な気配を感じることができる
(相手の殺気を感じることができる)
★相手の次の動きを瞬時に予測することができる(太刀筋が読める)
まさに、スピリチュアルであり・・彼らは、サイキックだ。
そのようなことを書いた。
それを、今、まさに山田次郎吉さんの存在で、それが証明された気がする。
彼は、迫りくる関東大震災を予測し、太平洋の波の音さえも聞くことができるという。
鉄砲の弾丸さえ当たらなくなるという。
(心のはたらきは弾丸のはたらきよりもずっと速い)
おそらく、弾丸を発射する気配も予知し、弾丸の道筋さえも予測できるから、
鍛えぬいた体は、瞬時にそれに対応できるのだろう。
たぶん・・こんなふうに? ↓

剣道の極意は、四戒
そして、明鏡止水の境地に達すること
私は、「ニュートラル」なんて言葉を使ったものけど、明鏡止水の方がカッコいいなあ~。
こういった精神面だけでなく、とうぜん、肉体もそれに合わせて鍛え上げなければならない。
そして、はじめて・・
完全無欠のサイキックが出来上がる!
サイキックとは、こうやって肉体と精神修行のうちに作られていくものなんだなあ・・とつくづく思う。
しかも、
感が当たるときはよいが、それが当たるとばかりはかぎらいし、ときには間ちがうことがある。
それに、頼ってばかりいると、大変な誤りを犯すことになるよ~。
と、ちゃーんと戒めているところも納得。
実に冷静なのだ。
現代もてはやされている、「霊能者」とか、「サイキック能力」なんて・・しょせんは、まだまだ不完全な方が多いのかもしれない。
ここまで肉体&精神を鍛え上げた人はいないだろうから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本という国は、つくづく・・
稀に見る、すごい国だったんだな~と思う。
山田次郎吉さんだけでなく、多くの剣客、そして剣豪と呼ばれる人たちがいたんだから。
華道も、書道も、茶道も、そして、剣道も・・・すべて道であり、精神修行がベースにあったのだから。
精神修行の先に、彼らは宇宙を! 調和の美を! 垣間見たのだろうか?
そのためのものだったんだろうか?

しかし、
明治になって、すべてが変わってしまったようだ。
剣道は防具を着けて、竹刀でたたき合うスポーツに転じ、
華道、茶道は、女性向けの花嫁修業になり、
(華道、茶道も、本来は武将が好んだものらしいが・・)
書道は、キレイな字を書くことだけに変じてしまった。。。
たしかに・・
それじゃあ、サイキックは生まれようがない(笑)
明治以前の日本人は、
一般人でさえ、剣の道のごとく・・生の裏にある「死」の存在も意識しながら生きていたのかもしれない。
お迎えがくれば天にゆだねる潔さを持ち続ける。
だからこそ、精一杯明るく生きようとしていた気がする。

池波正太郎さんの時代小説を読んでいると・・・
この人、すご~く、この時代が好きだったんだな~♪と思えてくる。
この時代が大好きで、そこに生きる人々、風物詩、鍛え抜かれた剣豪たち・・
「娑婆気」な中に漂うスピリチュアル
きっと、そういったすべてが好きで、
楽しんで書いてる・・・そんな感じがする。
だから、私は、「オヤジ趣味」といわれようが、「大衆小説」と言われようが・・
ついつい、ベッドで読んでしまう。。。
その人の好きでたまらない世界に触れると、私までハッピーになれるから。