FC2ブログ

メメントモリとエベレストのテーマ「死を想う」

本棚の整理してたら、メメント・モリ(藤原新也)という本が出てきた。

m15368521830_1.jpg

ずいぶん昔に、友人からバースディプレゼントとしてもらった本だった。


メメント・モリとは、

◆ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。(Wikiより)

◆この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。
(本文中の藤原新也の言葉より



St_Sisoes.jpg

著者はインドなどアジア各地を長期間放浪し、写真と文章が渾然一体となった作品を生み出すこととなったそうだ。

ガンジス河のほとりや沖縄の片隅で・・・生と死が交錯する一瞬の写真に短い文章が添えられた写真集だ。

この本のブルーの帯にも、こんなメッセージがあるが
        ↓

    Memento-Mori
         死を想え

月の明かりで手相を見た。 生命線がくっきりみえた。


これは本文中からの引用。


当然、ページをめくれば、死体の写真がいくつか出てくる。

げっ! そんなキモイものは見たくない!と誰もが思うものかもしれない。

しかし、そこから私がイメージするものは・・

切なさ → 美しさ → 荘厳さ → 生きること

だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本のメジャーな報道においては、遺体の映像や画像が表示されることは、まずないようだ。

そこは、諸外国と大きく異なる点だ。


噂によると・・その歴史は1948年の帝銀事件から掲載されなくなったそうだ。

凄惨な遺体の写真をありのままに報道するメディアに批難が集中してしまい、その後は、出来るだけ死体の写真や映像の公開を、避ける傾向が強くなったという。



数年前に、私の友人が、ヒロシマの原爆資料館を訪れたときには、凄惨さ、悲惨さを感じさせる写真は一切なかったそうだ。
そのため、なんだか・・ピンと来なかった!と言っていたのを思い出した。


「子供がトラウマになるから」というのが一番の理由で展示されなくなったんだとか。

こうした日本の文化は素晴らしいものだと評価する人たちもいる。



しかし、その反面、

平和な世界で暮らす日本人にとっては、「死体」や「死」といったものは、現実からかけ離れた異質なものに感じるのだろう。

ふだん目に触れないものなのだから。


神経質なまでに「死」という存在を遠ざけることばかりを偏重してしまうと、

逆に、生の意味も希薄になっていくような気がする。


シリアの戦火で多くの人々が殺されようが、よそ事としか感じられないだろうし・・
南米の大地震が起ころうとも、やっぱり、よそ事としか思えない。



あえて目に触れないように遠ざけられてるんだから・・そりゃ、無理もないんだろうけど・・。

hiroshima-1.jpg


私の友人は、ヒロシマの原爆資料館に子供の頃に連れていかれたことがあったそうだ。


小学校の低学年の頃に連れていかれて、戦中の地獄絵図を描いた巨大な円山応挙の絵画や数々の写真をみて、
強烈なトラウマとなってしまって、眠れなかったという。

「だからこそ、私は猛烈な戦争反対、核反対者になったわけよ~」と、彼女は言った。


戦争は悪いこと、核も悪いこと・・・と頭で理解することと、目で見たものから感覚で理解することとは別なのだ。



人々にショックを与えたくないのは・・よーくわかるんだけど・・

見たくない現実には蓋をして精神を守ることだけが、いつでも最良の方法とは限らないように思う。


私は、むしろ・・子供に見せることもいいんじゃないかな~、と思っている。


ただし、子供に見せる場合は、特に親がちゃんとフォローアップできるかどうかも重要なポイントだろう。

ところが、最近は、親の方が、ぎえ~!こんなグロいものを見せる方が悪い!と一方的にバッシングして終わっちゃう人が多いそうだ。


悲惨な死の現実を、単にグロいもの!と受け止めるのか

それとも

「生や死を意識することで命を大切に思い、生きていることの有り難みを実感するか」


そこらへんが、まさに、感性の違いだろう。

子供への教育に、そこを示唆すことが出来なければ、それこそ、ただのPTSDを引き起こすだけになってしまう。


ただし・・なんでもかんでもグロい写真を掲載すりゃいいってもんでもない。

やっぱり、さまざまな配慮や見せ方もあるので、そこらへんは考慮すべきところだと思う。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前回のエベレストのブログ記事の続きになるけど・・

またも、800メートルを超えた、デスゾーンのことを思った。

Jerome-Ryan-Copy.jpg


デスゾーンというのは、「あまりの壮絶さゆえ、人が生きていけない領域」という意味で登山家の間で呼ばれるようになった場所だ。

デスゾーンでは、すでに300体以上の死体が転がっているとも言われている。

the-death-zone-matt-dickinson.jpg



遺体の回収が困難なため、そのほとんどがそのまま放置された状態になっている地域。

ノーマルルートでさえ、デスゾーンに入れば、嫌でも死体を目にするという。

むしろ、その死体の位置を目印にして進むというほどだ。


ここで、

なんでヘリコプターを使って回収してあげないの?・・と愚問を投げかけてはいけない(笑)

ヘリコプターの原理は、空気を使って揚力を得ているのだ。
気圧が低すぎたら安定して飛ぶ事ができない。

せいぜい、飛べたとしても、標高6000mくらいまでが限界と言われている。
(もちろん、天候や風にも大きく左右される)

実際に、標高5300mにあるベースキャンプ付近に墜落したヘリコプターの残骸が二機、今も残されたままとなっている。

こちらがその一機
IMG_09451.jpg


じゃあ、仲間が背負って下山する?

NO WAY!


地上の三分の一しか空気がない領域では、呼吸は速くなり、消化器官は機能せず、ただ滞在しているだけで疲労は増していく。

つまり、酸素を補給するスピードより、消費するスピードの方が速いってことになる。


そんなところで、少なく見積もっても・・50~60キロもある死体をどうやって背負って降りる?

in the deathzone


比較的ラクと言われている、ノーマルルードだって・・何が起こるかわからないのだ。

山頂付近では100m進むのに1、2時間かかると言われているし、キャンプの200m手前で遭難するという事だって起こっている。


酸素ボンベが故障したり、途中で酸素が切れることだってあるだろう。
ザイルが切れないとも限らない。

体力があったとしても・・足を滑らせたり、突風や雪崩、突然のブリザード・・危険は隣りあわせ。

大ベテランのシェルパだって、そんなところで吹雪きにあえば、自分を守るため、先に山を降りてしまうという。
それは当たり前。


そのような環境下で、人を背負って下山するのはまず無理。

死にそうになっている人を助けたくても見捨てざるを得ないのが、デスゾーン。

動けなくなった人は見捨てる。
歩けなくなったら、終わりと思った方がいい。



topof themountain


疲労のため、頂上を目前にして動けなくなった女性が、

「私はここに残るから先に登頂してきて。 戻ってきたら一緒に下山するから」

そして仲間が戻ってきたときは、その人は両足とも凍りつき自力で立つことも出来なかったという。

なんとか立たせようとしているうちにも、仲間たちの息切れが激しくなる。 酸素の残量もなくなってくる。

結局、仲間たちは後ろ髪を引かれる思いで、彼女を見捨てて下山していった。




または、最愛の人を残して行かれずにその場で一緒に死を選ぶ人もいる。

人それぞれなのだ。


この話も有名だ。

疲労で動けなくなってしまった女性を見ながらも、何十人の人が通り過ぎていったけど、誰も助けなかったという話。



これは・・のちに多くの人々から避難を浴びることになったという。

しかし、それはデスゾーンを知らない、地上人の常識世界から出た非難だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ、息のある人を助けようとしないのは残酷だ、という人も多い。

しかし、それを残酷というならば・・

「お願い助けて! 見捨てていかないで!」

と、懇願する人の方が、もっと残酷かもしれない。


状況を百も承知の上で、あなたの命を私のために頂戴!と言ってるようなものじゃないだろうか?

人の心情を思いやる気持ちが残っていれば・・決してそんなことは言えないはずなのだ。




多くのアルピニストたちも、必ずといっていいほど、こういったシーンに遭遇するという。

みんな仲間を失ってきた人たちばかりだ。

そんな一人から、こんな話を聞いた。

p034nf5m.jpg


歩けなくなって死を覚悟した仲間が、

「先に行ってくれ! 大丈夫!あとで追いつくから先に行っててくれ!」
と言ったという。

もう立ち上がることも出来ず、追いつけるはずもない。
どこが、大丈夫だよ!


そんなことは二人とも無言のうちにわかっている。


しかし、死にゆく仲間は、友人を生還させるため、また、少しでも罪悪感を感じさせないために・・

「あとで追いつくから」、と言ったのだった。




「仲間を残し自分が生きる覚悟をした」アルピニストは、「生きる」ことを真摯に感じるようになったという。



理屈でわかるのではなく、感覚で「死」と「生」がわかるようになるのだという。


むしろ、安全な世界でずっと過ごしてきた人たちより、彼らの方が「必死に生きること」を思えるようになるのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「必死に生きること」とは、裏を返せば、「死ぬ覚悟」が出来ているということかもしれない。


デスゾーンに挑戦するということは、

「真摯に生きようとする意思」と、 死ぬときがきたら「満足して死んでいく」

たぶん、この二つが要求されることかもしれない。


現実的な話になるけど・・

アルピニストのほとんどが、資金をスポンサーから提供してもらう人が多いという。

登頂に成功すれば、あえてメディアに露出して、さらに多くのスポンサーをつけるようにしていく。

そうしなければ、よっぽどの大金持ちでもない限り、続けられないのが現状だからだ。

もちろん、スポンサーが出資するのは、それがビジネスに結びつける目的があるからだ。


中には、難波康子さんのように、スポンサーを持たずに自分の資金と休暇を使って登る人もいる。


こういった人は、ほとんど世間では知られず、無名な人が多い。


どっちにも利点もあれば欠点もある。

多くのスポンサーがいたり、メディアに露出すればするほど、おカネは集めやすくなるだろうけど・・
人間界からのプレッシャーが多くなるのも確かだろう。


デスゾーンに入れば、そこは人間界じゃないのに・・(笑)

The-Wildest-Dream_Death-Zone-Film-Still-1.jpg


それでも、人間界のプレッシャーを引きづってしまうことも多いのかもしれない。


それもまた、人それぞれ。

ただ、最期をどうやって迎えられるか?

それが、大きなポイントになる。


遭難して、もう誰も助けてくれないし助けられない。

そうなったときに自分で納得できるかどうかだ。


自分で命をかけてここまで来たんだから、これで満足と思えるか・・

助けてくれなかった人を恨んで死ぬか・・神を呪うか・・

やっぱ、こんな仕事受けなきゃよかったって後悔しながら死ぬか・・


最期に、これで本望だ!と思わなかったとしたら・・それほど不幸な死に方はないだろう。


死をみつめるということは生をみつめること



本来、そんなことは、地上界だって同じことなのだけど、

恵まれた人たちは、死も知らず、痛みも知らず・・

そして、「酸素のありがたみ」すら知らずに生きているのだろう。

コメントの投稿

非公開コメント

Profile
スピリチュアル世界中心のブログ★

gingetsu2010

Author:gingetsu2010
アリゾナ州セドナにて、アクセサリー工房Alizona*銀の月*をオープンしてる銀月です!

日々の生活や体験の中から、社会のこと、スピリチュアルなことなど・・思いつくままに書きつらねてます。

皆様にも「スピリチャアルの意味」「生きる意味」を感じて頂けたら、幸いです!☆

Calender
10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
Link
☆HPはここをクリック↓☆
検索フォーム
カテゴリ
Diary
Alizona*銀の月*ショッピングサイトのお知らせ
Alizona*銀の月*では、ショッピングサイトをオープンしました。
ネイティブインディアンのホピ族を中心としたオーバーレイの銀製品を中心に、銀月の好みで集めてしまった逸品揃いですよ~(^^)v
☆ホピ族は、まさに、スピリチュアルな生き方を貫いてきた人々。
銀月のWEB、「ホピ族の話」をまずは、じっくり、ご覧ください。


Alizona*銀の月*の↓のURLから、お入りください。
http://sedona10silvermoon.web.fc2.com/index.html"