気になる人物「明智光秀」

きょうは、ちょっと歴史物についてのお話を!
私は、長年のコミック・アニメファンなんですが、同時に、歴史物も好きで、子供の頃から、吉川英治全集を読みふけり、その後に、池波正太郎にはまってしまった経緯があります。遠い昔ですが・・。

そんなわけで、NHKの大河ドラマも、ときどき、「こんな作り方はおかしいじゃないか!」などと、文句をつけながらも・・結構、楽しんで見ちゃたりしてるわけです。
ああ、時代劇は、あまり好きじゃないんだけど・・唯一、「鬼平犯科帳」だけは、大好きでしたね~。

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きょうは、なぜか・・私が昔から、とっても気になる歴史上人物、明智光秀のお話です!

明智光秀というのは、織田信長の家臣でありながら、本能寺の変で主君、信長を討ち、すぐに秀吉に滅ぼされてしまう、「謀反人」とか「三日天下」(実際は12日あった。)なんて呼ばれて、どっちかというと悪者扱いの人ですよね?

ところが、調べれば調べるほど、魅力的で、謎に満ちていて、歴史的興味も掻き立てられる人なんですよ~。

さて、では、織田信長と明智光秀にスポットを当てて、ざっと説明しますね。
ざっとでも、長くなっちゃいそうなんで、興味無い方は、スルーしちゃってください!

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もともとの織田信長という人物は、身分や素性にこだわらず才能ある者を評価するし、進んで海外にも感心を示し、新しいものを取り入れ、戦いにおいては、危険を顧みず、戦場の最前線に立って指揮をするし、実に、斬新、型破りのカリスマ的魅力を秘めた人だった。

明智光秀もそんな信長に惚れこんで、この男に賭ける気で家臣となった。

一方、明智光秀という人物を見ていくと、領国においては税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人。
また生涯の大半の戦で勝利し、自身も射撃の天才であり文武両道の名将。側室を持たず妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する心優しき男。
織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。

そんな信長からみれば、物静かな教養人で人情家の光秀は、エネルギッシュで破天荒な信長にとっては、退屈で面白くない男に見えたはず。
それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑として、はじめは、信長自身も彼を認めていたのだ。

ところが、信長は、「比叡山の焼き打ち」を行ったあたりから、だんだん、狂ってきちゃう。
比叡山の焼き討ちは、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も、犬まで皆殺しにしてしまったようだ。
その後、信長は、ますますエスカレートして、奇行や残虐性、狂気を帯びてくる。
信長についていけなくなった家臣が、奔走した後、その家族はもとより、家人や侍女たちや、その子供まで閉じ込めて焼き殺したり、また、機嫌が悪い時は、自分の侍女たちまで殺すし、一向一揆の弾圧では、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺してしまった。文字通り騙し討ち。

足利将軍も、天皇家も、彼にとっては、何の意味もない存在。ついに、自分の神格化をはじめて信長像を建造し、神仏を拝まず、まず、これを拝めと、朝廷にまで命じちゃった。

こんな信長を止められるとしたら、おそらく、武田信玄上杉謙信
ところが、二人とも病死しちゃうし、上杉家はお家騒動になるし、武田信玄の息子、勝頼は、長篠の合戦で大敗して結局自害しちゃう。

武田勝頼亡き後、武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、
僧侶150余人を焼き殺しちゃった。

上杉謙信の「信義を重んじる心」や死者を悼む心なんぞ、信長には、まーーたく関係ない。

燃え盛る炎の中で恵林寺の高僧・快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたってのは、未だに語り伝えられてるよね。

※越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた
「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。・・・これは人間のすることではない。

ここで、スピリチュアルな見かたをしてみると、信長は、延暦寺の焼き討ちあたりから、何がしかの霊に乗り移られてしまってたんじゃないか・・って思える。
ますます軌道を逸した残虐性はエスカレートしてくるし、まるで、自分でも何かに操られていたかのようだったんじゃないだろうか?

もう、止まらん!だれか止めてくれ~!って状態だったんじゃないだろうか?

そして、彼のストッパー役になったのは、明智光秀。
初めは自分が惚れこんで家臣になった男なのに、権力を手にして殺人鬼と化した信長を見る羽目になっちゃったわけだからね。
どうみたって、こんな信長に天下をとらせてしまったら、日本の行く末は・・恐怖政治!

光秀が、本能寺の変を起こしたのは、彼の性格的にみても、また状況から見ても、私利私欲の天下取りの為に、「本能寺の変」を起こしたのではない・・と思える。
現に、旧知の細川父子(息子の嫁は、光秀の娘ガラシア)に、本能寺の変の後、手紙を書いてる。・・50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだと。


●さて、1582年6月2日朝「本能寺の変」決行。(ドラマで見ると、夜の設定になってるのが多いけど、実際には朝だった。)

ところが、この本能寺の変は、明智光秀の一存で決行したのでは、ないようだ。

まず、朝廷方が賛同してる。
●本能寺の5日前、光秀の開いた最後の連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。

光秀はこれらの歌を神前に納めている。↓

時は今 雨が下(した)しる 五月哉(明智光秀)
“時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」

これに出席者の歌が続く。

水上まさる、庭の松山(西ノ坊行祐(僧侶最高位))
“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)

花落つる、流れの末をせきとめて(里村紹巴(連歌界の第一人者))
“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい


そして、あの徳川家康も、これを事前に、知っていたはず。
家康は、母親と息子を信長に殺されるという個人的は恨みもあったからね。
理由は、武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じてた。実は、嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇で実際には無実。


家康は、本能寺の変の後、当日にその事実を知り三河へ引き返してるし、秀吉はその翌日知って京へ上った。
いくらなんでも・・早すぎない?

結果的に、本能寺の変は、多くの人が反逆者になるのを恐れて、光秀に援軍を送らなかったんで、失敗に終わってしまった。
そこで、チャンス到来の秀吉が、ちゃっかり光秀に反逆者のレッテルを張って、自分が天下取りしちゃったわけだ。

光秀は、その後、大群の秀吉軍に敗れて、深夜、大雨の中、小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走中だった時に、落武者狩りをしていた百姓・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。(長兵衛はそのまま逃げた。)

光秀は致命傷を負って、家臣に介錯を頼んで自害。2人の家臣も後追い自害。・・・で、一生を終えたことになっている。

<光秀の死にまつわる疑問点>

大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民・長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?
また、この時代の常として、当然、影武者を用意しているはずで、それを土民が見抜けるのか?

長兵衛はどうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか?

しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった。村の英雄のはずでは?

明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。

殉死したと伝えられている2人の家臣は、生きていて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。

光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能ということだ。

ただ、間違いなく、光秀が死んだとされた理由は、4日後、秀吉が首を確認してるからなんだけど・・
6月(新暦では7月)の蒸し暑さの中で、はっきりと、影武者か本人かの判別ができたのだろうか?

それとも、秀吉は、あえてウソをついて、死んだことにしたんだろうか・・・?
(徳川家康と共に、何かの密約でもあったんだろうか・・?)

・・・・・・・・・・・・・・

では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?
実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという説がある。

まず、南光坊天海というのは、家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。
比叡山から江戸へ出て、絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。
様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、
江戸の町並み(都市計画)を練るなどして107歳の長寿で他界。
ところが、彼の前半の半生は、ほとんどベールに包まれたままで確実な事は、わかっていない。

<天海の謎>

家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!kamon3.jpg


日光の華厳の滝が見える平地は「明智平」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?

2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。

天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だったのに・・なぜ?

年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。

家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将で、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。
まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったって事?(しかも表向きは公募制で選ばれたことになっているらしい。)

比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。・・・日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。(この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。)

家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」だったから。

光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。
(大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。)

天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。
明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深。


時が流れて“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深。
「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。
大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くした」。
・・・と記されている。

天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないからだったのかも・・。

それに・・晩年の秀吉は甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり朝鮮侵略を行なうなど、かなりおかしくなってきてたんで、天海は、信長時代のの悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したんじゃないだろうか?

こういった説には、賛否両論があるし、本当のところは、誰にもわからない。
タイムスリップしてその時代を見て来てくれるか、それこそ、光秀の霊を呼び出して、真実を語ってくれない限りは、無理だろう。

でも、やっぱり、明智光秀が、優れた大人物であった事はたしか。
そして私には、とっても魅力的な人物に見える。

天海をブレーンとして確立していった徳川幕府は、異例の260年も続き、当時の世界にも誇れる100万都市にもなったし、経済基盤も完璧だった。
また、江戸は、風水的にも、実に理想的な形に作られていたらしい。
天海という人物も、実に・・謎に満ちてるし~。

日光東照宮や、光秀の墓に行って、この目で確かめてみたいんだけど・・なかなか、アメリカから日本へはいけないなあ。。。
誰か、私の代わりに、確かめてきてくれれば、ありがたいんだけどね~。

ほんとうのところは・・いつも、謎に包まれてるものだなあ。





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