私は、小学校の5-6年生頃だったか・・ウチの家族の間で「百人一首かるた取り」が、ブームになってた時期がある。
百枚をテーブルにシャッフルして並べて、一人が歌を読んでるうちに、下の句が書かれたカルタをバッと取るというゲームで、
たとえば、
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
なんて歌だと、
これや・・の コという音を聞いた瞬間に、もう目では「知るも知らぬも」の札を探してる。
そういったところは・・昔、ウルトライントロクイズってのをTVで見たことがあったけど(←君もかなり古いなあ。)、それと近いものがある。
ウルトライントラクイズは、イントロを聞いただけで曲を当てるゲームなのだが、よく知ってる曲だと、最初の出だしの音を聞いただけで、わかっちゃうものだ。
きっと、百人一首というのも、そんなものだったと思う。(←ほんとかよ!)
私も当時は、子供だったせいか、大人よりも、記憶力と反射神経はめちゃめちゃよかったらしく、いつでも家族内では一番だったような記憶がある。
今では、きのう食べた夕食さえも思い出せないつーのに・・・ああ、子供つーのは、すごいものだなあ、私もそんな時代があったのんだよなあ。(←遠い目で)
きっと子供の特権なんだろうと思うが・・別に100の和歌を暗記しようと努力したこともないし、当然、その奥ゆかしい意味なんて知ったこっちゃない!
とにかく、ガバガバ分捕ることが目的で、な~んとなく、カルタの絵柄やら耳で聞く音で覚えてしまったんだろう。
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さて、今回は・・その百人一首にまつわる話なのだが、
百人一首にまつわる謎というのをご存じだろうか?
この百首の歌の選びかたが、どうみてもおかしい、というのは、専門家の間でよく言われてることのようだ。
百人一首、正確にいえば、「小倉百人一首」のことなんだけど・・・これは、藤原定家(さだいえ)さんが選出したもの。
藤原定家さんと言えば、学者として歌人として、『歌道』という物を確立した大変な才能を持つ方。
なのに、
●そんな人が選出したとは思えないような駄作としか思えないような歌が含まれている。
●当時の有名な歌人の歌が選ばれてない。
●何度も同じ言葉・同じ情景の歌が含まれている。
という点が、謎とされている。
●たとえば、まず、どれが、駄作とされてるか?
よくやり玉にあげられるのが、22番の歌で、
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐と言ふらむ
秋風が吹き降りてくれば、とたんに次々に草木がしおれてしまう。 だから山風のことを草木を荒らす「荒らし」「嵐」と言うのか。
( ̄◇ ̄;)
まあねえ、アラシ、嵐という字は、分解すりゃあ、そりゃ山と風になるよあ~。
和歌の教養の無い私には良し悪しなんて、到底わからんが・・なーんとなく、なーんとなくだけど・・・
雅な時代における、オヤジギャクでも聞いてるような。。。
歌には、技巧と情感が必要なんだそーです。
それ、プラス、独自のセンス、クリエイティブティー、そこに品性などというものを醸し出すことが望ましいんだとか。。。
ある古の専門家に言わせると・・・これは、まるで自分の知恵をひけらかすような技巧にはやった感があり、それもチャチな技巧をさも得意げにしている張りぼての卑しさを感じる歌なんだそーだ。
おお、そこまで言うか~!ってカンジだけど(笑)
この歌の技巧ってなんだろう? 山と風で嵐・・のことかな??嵐と荒らしをかけてること??やっぱり、無知な私にはオヤジギャクとしか思えないような。。。
●次に、何度も同じ言葉が含まれているというのは、例としては、こんなのがあります
↓
4番の歌「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高ねに雪は降りつつ」
15番の歌、「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ」
3番の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」
91番の「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」
実は、まだあるのだけど・・。
こんな同じ下の句なんてのは、たまたまなんじゃないの~? とも考えられなくもないけど、
しかし、まあ、よく考えてみれば、藤原定家さんともあろう人が、100選するのに下の句がまったく同じものをいくつも選んじゃうってのも、たしかにヘンかもしれない。
それに、当時の一流歌人の歌を入れてないつーのも。。。
現代の歌人が嫌いなだけかな?
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実は、藤原定家さんという方は、後鳥羽上皇と、「仲良く」されてた方だったそうだ。
最初に藤原定家の才能に目をつけたのは、第82代天皇・後鳥羽上皇の方だったようだが、
当時の学者・歌人たちにとっては、権力者にいかに気に入られるかによって、その出世が決まるという時代。
定家さんにしては、後鳥羽上皇に目をかけて頂けるってことは、実にありがたいことで、自分の才能を高く評価してくれた後鳥羽上皇には深く感謝して、その期待に応えようとも頑張っていたらしい。
上皇もそんな定家さんを大変気に入っていたらしいのだ。
そして、常に仲良しだった。
ところが、そんなある日、とっても些細なことで口げんかをしてしまう。
おそらく、二人ともそんなことで、一生仲違いするなんて気はなかったんだろう。
しかし、
運悪く、仲たがいしてる最中に承久の乱が起こってしまう。
承久三年(1221年)5月14日・・・承久の乱の勃発
北条氏が虎視眈々と権力を狙ってる時代。
後鳥羽上皇は、やりたい放題、横暴な手段に出まくる北条氏を見るに見かねて、執権・北条義時(頼朝の奥さんである政子の弟)の追討の院宣(天皇の正式命令)を発した。
そう、北条氏への宣戦布告というわけだ。
それを迎え撃つことになる北条方。
ところがここで、北条政子の手腕により、上皇方の形勢は一気に悪くなり、
結局、上皇方は大敗。
首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ配流させられてしまうのだ。
もっと詳しく付け加えると、↓(Wikiより)
父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。
これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。
あらら~。
北条氏にとって邪魔な天皇家はすべて一掃されちゃったということだね。
このとき、幕府(北条方)は「天皇御謀反」という、大義名分をかかげている。
ちょっと待った!!
一番上の位にいるのが天皇で、その部下が天皇に対して謀反てのは、ありえないんじゃないかなあ??
「謀反」というのは本来、目下の人間が目上の人間に行う反逆のことだと思うのだが・・。
こじつけだろうが、言いがかりだろうが、理不尽だろうが、力の強いものが言ったことが通ってしまうのは世の常。
それだけ、北条氏の力が最強になってしまったことを示す出来事だったということだ。
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そんなこんなで、藤原定家さんは、もう2度と後鳥羽上皇に会うことがなくなってしまう。
もちろん、配流先の隠岐まで会いに行ったり、文を送ったりってことも、やろうと思えばできただろうけど、そんなことをしたら、北条に睨まれる。
北条氏に睨まれたら、彼の身だってどうなるかわからない。出世にひびく。
藤原定家さんがお咎めなしだったのは、その時、後鳥羽上皇と仲たがいしていたことが幸いしたのだから。
さて、この頃の配流された、上皇や天皇たちの暮らし向きはどうだったんだろうか?
海に囲まれた島で、訪ねてくる人も無く、文のやりとりさえできず、寒い日も火鉢さえ与えられないような暮らしぶり・・という話もある。 (もっとも、その土地を納める役人次第ってことだろうけど。)
死罪は免れたものの、獄中での無期懲役みたいなものかもしれない。
後鳥羽上皇は、それでも、いつか帰れる日を夢見て、その後20年くらい生きながらえたとか。
最期は呪いながら死んだと言われている。
↓ Wikiより
配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は
「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。
もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」
との置文を記した。
また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、怨霊と化したと見られていた
そういえば、天皇国家を呪った崇徳天皇の例もあったなあ。。
おお、怖っ!
一方、お咎めなしだった、藤原定家さんは、どうだったかというと・・・
たぶん、最初は、自分は助かってラッキー!とほっとしたかもしれない。
しかし、
後鳥羽院の呪いが怖くなった!
そんな心境だったかもしれない。
後鳥羽上皇は頻繁に京へ文を送ったそうだ。
その中には、こんな文もあったという。
まだ定家が若かった頃、水無瀬川離宮にも招待し、様々な形で援助してやったのに、
最近は自分の歌人としての力量に慢心し、都を追われた自分に対して敬意に欠いている・・・・・という恨みの言葉があったとかなかったとか。
さらに、そこには、真っ赤な呪いの手形を押した置文まで残ってたという。
たぶん、こんなヤツ?↓
ひえええ、怖っ!
この当時は、言霊という存在が人々に信じられていた時代。
当然、怨霊の祟りというものも、一般的に信じられていた時代でもある。
定家は上皇の呪いが何より怖かったんじゃないだろうか?
藤原定家の日記によれば・・・
嘉禄元年(1225年)6月12日、
「琵琶湖畔の志賀浦に、全身が青黒く光る羽根でおおわれ、眼は炎のように燃え、鋭い爪の生えた足が4本ある大きな怪鳥が多数現れ、それを殺して食べた者は、その場で絶命した。その鳥は『隠岐掾(おきのじょう)』と呼ぶ」
と記されているそうだ。
おきのじょう・・・隠岐。。。
また、
延応元年(1239年)のある秋の夕暮れ、隠岐に住む漁師が島に帰ろうと舟を急がせていた時、島全体を覆い隠すような数のこの怪鳥の大群を目撃。
その鳥はしばらく上空を旋回した後、一斉に南東(都)の方角へ飛んでいったという。
その同じ時刻、隠岐で20年間の幽閉生活をおくった後鳥羽上皇が、京の都の地を踏むことなくこの世を去ったということで、
京の都はこのウワサでもちきりになったともいわれている。
その後、定家が日記「名月記」にこんなことを書いているそうだ。
「小倉山にある私の山荘のすぐ近くに住む僧の蓮生に頼まれて、
障子に貼る色紙用に天智天皇から今日までの歌人100人の和歌を一首づつ選んでみた。
私は達筆ではないので気が進まなかったが、仕方なく筆を取って書いた。それらの和歌を選んだ基準は私の心の中にある」
蓮生というのは定家の息子の妻(つまり嫁)の父親のこと。
で、「選んだ基準は私の心の中にある」とは、いったいどういう意味だろう?
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林直道 『百人一首の秘密:驚異の歌織物』によると、
林直道さんは、こんな説を唱えている。
↓
百人一首は定家が後鳥羽上皇の怨霊・祟りを畏れ、上皇の愛した水無瀬川離宮の絵を描いたのです。
後鳥羽上皇がこよなく愛した水無瀬川離宮の絵を、絵筆の代わりに和歌で織り上げたのが百人一首であり、
そうすることで、過去にお世話になった恩人で、今は流罪の罪人と化した後鳥羽上皇を追悼、顕彰しようとした訳です。
同じ言葉が使われている和歌を集めて、それを縦横に並べ繋げると一幅の絵になる一世一代の試みを企て、
「文学的絵巻物」に仕立て上げました。
つまり、こうゆうことになるのだ。
↓
百人一首の各札を合わせ言葉を手がかりにして、上下左右をジグソーパズルのように並べると100枚がきれいに並んで、そのうち70枚はある風景になって並ぶ。
あ、そうそう、こちらのサイトを参考にするとわかりやすいかも。
こちらは、京都老舗おかきの専門店のサイトですが、ちゃーんと、この絵図をアップしてくれてます。
↓
水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がります。
なーるほど!
藤原定家さん、やるなあ!!
と、私は即座に思ったけど・・もちろん、これは一つの説に過ぎない。
反対の説を唱える方も多く、こんなのは、ただのトンデモ話に近いというような批判もあるらしい。
しかし、数ある説の中で、なぜか私は林さんの説が一番心にしっくりと、すこーんと胸の中に収まった。
水無瀬川離宮というのは、後鳥羽上皇が大好きな場所だった。(残念ながら今は無い。)
その彼が、その大好きな場所を読んだ歌がこれ↓
見わたせば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ(後鳥羽上皇の歌)
(新古今和歌集・春上)
訳:見渡すと山の麓が霞み水無瀬川が流れている、夕方は秋だなんてどうして思ったんだろう。
この季節は、春(霞むって季語が入ってるからね。その程度ならなんとかわかる私。。。)、そして夕暮れ。 春の夕暮れ。
枕草子では秋は夕暮れって言うけど、なんで、そう思ったんだろう? こんなに春の夕暮れだって心に浸みる美しさなのに。
という歌だそうだ。
たしかに、この美しい情景が目に浮かんでくる。
さぞ、後鳥羽上皇という方も優れた歌人だったんだろう。
だからこそ、定家さんの才能に惚れこみ、重く用いて仲良くしてたのかもしれない。
そんな後鳥羽上皇へ対する鎮魂歌、それが百人一首だったのかもしれない・・と、つくづく思う。
しかも、歌のパズルで綴って彼が大好きだった絵を送る・・・ということかあ。
しかし、ただのパズル目的だけで歌を集めただけでもなさそうで、そこには定家さんの思いもいっぱい詰まってる気がする。
駄作?もあるだろうが、1つ1つ見て行くと、これは!!と思えるような歌を多くあるし、定家さんの細やかな配慮や意図したものまで感じる部分も多い。
百人一首の99番目には、後鳥羽上皇の歌が入ってる。
(ちなみに最後の100番は、後鳥羽上皇の息子の順徳院、流刑された人)
人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
訳:ひとを愛しくも思い恨めしくも思い、思うようにはいかないもの。世の中を思うから、自分自身も色々と思い悩む。
愛することと憎むことは心のうちにあるアンビバラントな感情だし、「世の中」、そして「自分」かあ。
うーーん、後鳥羽さんて(←さんづけでいいんかな?)、そうゆう人だったんだなあ。
こーんな昔の人でも、残された歌で、なんとなくその人柄やその思いが見えるような気がしてくるものだねえ。
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「百人一首の謎」のせいで、つい、1つ1つの歌をチェックしてしまったが、そうやって見て行くと、
なんだか、ただ「怨霊を恐れて」というだけでもなさそうに見えてきた。
そこには、定家さんの後鳥羽上皇へ対する、さまざまな思いが込められてるような気がする。
もっとも、定家さんも最初は、
後鳥羽さん(←さんづけはしないってば!)怖っ! 僕を恨まないで成仏してよ~。
という事で作りはじめたのかもしれない。
でも、編集していくうちに、後鳥羽さんとの出会い、かわいがってもらったこと、文学談義をしたことなどなど、さまざまな過去を思い出していったのかもしれない。
それはもう、さまざまな思いとしか、言いようのない思いだ。
言霊が信じられていた時代。
後鳥羽上皇の御霊は、これによって癒されたんじゃないかなあ。。。
そうだったらいいなあ!という、これは私の個人的願望かもしれないけどね~(笑)
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最後に、百人一首の97番目の歌。
ご本人の藤原定家の歌をのせておきます。
↓
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ
訳: いつまでも現れないあなたを待っていると、まるで松帆の浦の夕凪の時に焼く藻塩のように、私の身は恋焦がれてしまう。
昔は塩を取るのに海に潜って海藻を採取して、それを火で炙って水分を蒸発させて後に残った塩分を採取する、という、時間はかかるし超メンドーな方法をとっていたとか。
海に潜ってとってくるのはまだ年若い海女、朝に潜って取ってきて夕方にじりじり焼きながら塩をとる。
当時の恋の歌、待つ身の辛さを歌ったものは、いっぱいあるんだけど・・・
だいたいが、「大人の女であり、家の中で夕方から夜、じーーと待つ」というのが定番。
海に潜る少女、しかも明るい日差しをイメージするような海、そこで待つ身の辛さをうたったのは、とーーっても斬新だとか。
定家さんという人が、ちらっと見えた気がする。