歴史なんて役にたたないという学生の話から

「歴史とか考古学なんて、勉強したって、なーんもなんないよね。」

「だよねえ、まったく稼げないだろうし、だいたい、歴史なんて勉強したとこで何になるんだ?」

こんな言葉を街中で、ふと耳にした。
若い男性、おそらく学生らしい、二人の会話。

あーー、たしかに~。

・・・と私も思う。

歴史学、考古学の分野で、バンバン稼いでるなんて、ほとんど聞かない。
それは、ここ、アメリカでも日本でも同じだろう。。。

それこそ、研究者になるならば・・・

バイオテクノロジー分野に行って、行く末は、モンサント社のエリートなるか・・・
(色々と悪名高いモンサント社だけどね。。。)
とにかく、企業が高額で買い取ってくれるような研究をしなきゃならないということだ。

または、政府機関のNASAとか CIAでも狙った方が、いいんだろう。


日本でエジプト研究の一人者と言われる、吉村作治教授だって・・・ずいぶん苦労の連続だったようだ。

egypt.jpg

考古学なんて、現地へ行って遺跡を見なきゃ始まらないわけだし、その渡航費、滞在費、調査に使う測定機等も高額だろうし・・。
大学や企業が、バンバン経費を出してくれるわけでもなかっただろうし・・。

吉村教授の場合は、TV出演するようになって有名になったおかげで、資金を捻出できるようになったとも聞く。


あ、そういえば、最大な危険を伴って、もっと食えない仕事といえば・・フリーの戦場カメラマン!

watanabe.jpg

もちろん、渡航費やら、高価なカメラ、レンズ、パソコン等の経費も自分持ちだし、なんとか食えるようになるまでには、みんなアルバイトで稼ぎながらというのが、当たり前だとか。。。
この方も、TV出演で人気がでたため、資金調達ができるようになったと聞く。



ホセの知人で、シマちゃんという人がいて、(私は会ったことがないが・・)
彼は、大学院まで進み、ずっと沖縄の歴史と文化を研究していたそうだ。

ところが、それを活かして仕事をしようとしても、まったくない。
しかも、アメリカだし~(笑)

彼は、ツアー会社のドライバーをやったり、ウエイターをやったりしながら、好きな研究は続けているとか。

私の身近にもそんな話はよく聞く。

現状では、専門分野の高学歴や豊富な知識を持ちながらも、メインの仕事だけでは生活できない人たちがいるということだ。


そう考えると、

たしかに・・
歴史なんて勉強したところで食ってけるのか?

そもそも歴史なんて、勉強して何になる?


と、いう疑問は自然なことだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史かあ。。。

ちなみに、これは、私が中高時代に勉強した日本史(関ヶ原から幕末までを抜粋)
       ↓

1600年 関ヶ原の戦い
東軍大将 徳川家康
西軍大将 名目上の総大将は毛利輝元
事実上は、石田光成
東軍の勝利

1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
豊臣滅亡

徳川政権となり、
三代将軍 家光の時代に、
武家諸法度、参勤交代、鎖国などの制度が出来上がる。

1687年 五大将軍 綱吉の大事に、第一回生類憐みの令
財政難が深刻化する

1716年 八代将軍 吉宗享保の改革
相変わらず財政難

10代家治の時代、
老中、田沼意次の改革

1788年 天明の大飢饉
浅間山の噴火
11代家斉時代 老中、松平定信が、寛政の改革

1830年から、天保の改革、(家斉がはじめた)

12代、家慶のもとで、水野忠邦が天保の改革

1853年 ペリー来航  13代将軍 家定の時代
1854年 日米和親条約

1858年 14代徳川家茂が就任
大老井伊直弼が、安政の大獄

1860年、井伊直弼は、桜田門外の変で暗殺

1862年 文久の改革で、会津藩、松平容保京都守護職に就任。

1863年 薩英戦争 薩摩藩とイギリスの戦い
1863年 下関戦争 長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国と戦ちゃった。。。
1864年、禁門の変、長州藩と会津藩が京都で激突

1866年 薩長同盟が結ばれる
1867年 徳川慶喜、征夷大将軍職への就任
1867年 大政奉還
1867年 孝明天皇が崩御
1868年 明治天皇即位
1868年 - 1869年 戊辰戦争、薩長軍とその旧幕府勢力による反乱軍



こんなことを教科書で習ってきたはずだ。
たまたま、ここで日本史、それも徳川時代を例にあげたわけだけど・・

今、こうやってみてみると、天下分け目の戦いと言われた、関ヶ原の戦い以来、ざっと270年ほど続いてた徳川政権も、長きに渡る財政難だったし、天変地異やら冷害などによる、飢饉やら一揆で、いろいろな改革を行ってきたってきたことが、よくわかる。

それに、幕末になると、ほぼ毎年のように小競り合いやら戦争が勃発するし、京都なんて、危なくって住めるような場所じゃなかっただろう。

そして、とうとう戊辰戦争によって徳川政権は終わり新政府に変わり、現在に至っているということだ。



あーあ、
こんなことを知ってたとして・・・それが社会=仕事で役に立つのだろうか?

そりゃあ、NO だよなあ。。。(笑)

こんなことを知らなくても、簿記、経理、マーケティング、コンピュータスキル(基本のWord, Excel, PowerPoint, FailMaker)を知ってた方が仕事をゲットするのは容易いからねえ。



しかし、

私は、中高時代に勉強してきたこの歴史から、さらに大人になってからだけど・・また多く学んだことがあった。

それは、たまたま読んだ歴史小説だったり、TVの大河ドラマだったり・・そんなものがきっかけだったのだが、色々と調べたりしながら、もっと詳しくみていくと、色々な側面が見えてくる。


ととえば、前述した徳川時代の歴史を見ても、

天下分け目の戦い
関ヶ原の戦いは、まさに・・運命を決定づけるような出来事で、もしも武将であれば、東軍につくか西軍につくかでその後の運命が大きく変わってしまう、ハラハラドキドキものだったと思うのだ。

しかも、その力は拮抗していて、どっちが勝つかなんて始まって見なきゃわからない。
しかし、誰もが決断を迫られる。

そこで、慎重に家を残すために、どっちに転んでもいいように二股かけてる家もあったそうだ。

真田家・・・父・真田信幸と次男・幸村は西軍につき、長男・真田信之は東軍につく。

前田家・・・長男・年長が東軍、次男・利政は西軍


一見すると、親子兄弟が敵味方となるなんて、あまりにも悲劇的に見えるけど、ちゃんとどっちに転んでもいいように彼らが家を存続させるためにしくんだことだったのではないだろうか?(という説もある。)

事実、前田家も真田家も安泰に存続することができたし、前田家なんか、お家安泰だし、長男が次男の助命嘆願したおかげで命が助かっただけでなく、次男の所領が長男のものとなって、そこから敗れた次男にも生涯かなりの額の仕送りをし続けたそうだから。

親子兄弟が敵味方に分かれても、それなりの働きをしておけば、旨く行けば、勝った方が負けた方の助命を願い出てしかも領地安堵、ご加増もありえたということだ。

しかし、もしも一族すべてが、西軍に味方してたとしたら家はまず、取りつぶされてしまったことだろう。

なーるほど!
確実な方が見えないような場合は、どっちに転んでも家が生き残れるような、保険とも言える方法をとっておくということらしい。

こういった時、大きな賭けにでるか、またはこういった安全策をとるかは、それぞれが分かれるところだろう。



天変地異(富士山や浅間山の噴火など)、冷害などによる飢饉、疫病などが起こり、そこで・・食えなくなった庶民は一揆、打ちこわしなどが頻繁に起こっている。
関ヶ原の戦い以来、大きな戦争もなく、ざっと270年ほど続いてた徳川政権も、こういったことの対応は大変だったということだ。


長きに渡る財政難・・三代将軍・家光の頃から財政難ははじまってる。
8代将軍が享保の改革をやった裏には、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまってたそうだ。

ひええ~、もう、蓄えがない!と、さぞ、焦ったことだろう~。


ところで、



なぜ? 幕府はお金がなくなっちゃったのか?

武家の収入の基本は米、禄高
そして、米を現金に換えるのは大阪か江戸。
そうなると、この二大都市では米はいつもあるわけで、すると、米の相場価格は下がり続ける。

享保の改革の倹約令・・たちまちインフレになるけど、米価格は影響が少ないため、武家はますます貧乏になる。

商人中心の自由主義経済になっていったこと。
1730年前後から大阪で米の先物取引が始まった。
(現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地なんだそーだ。 大阪商人はすごい!)
つまり現物取引と先物取引が混在して市中価格が決まったということだ。

幕閣は、めちゃめちゃ経済に疎くて、そういったことが到底理解ができない。
そういえば、上級武士というのは、算術すら習わなかったそーだ。 そんなことをするのは卑しい者とされてたんだとか。
それで、足し算だってあやしい状態で、九九ができないなんてのは当然だったらしい。
金勘定する商人が一番卑しいと思われていた時代。

格式を重んじる武家社会
冠婚葬祭、節句行事などが最重要で、これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費が莫大。
武家は見栄を張らなきゃならず、参勤交代など、もっともお金がかかる。



まあ、こういった理由から、どんどん財政難。
そこで、必死に色々な人が財政立て直しを試みたけど、ことごとく失敗しちゃう。

唯一、田沼意次さんが行った政策が、私としては一番だったんじゃないか?って思ってる↓ (以前の記事にも書いたけど・・)

歴史は繰り返す?江戸時代の政治家さんたち


しかし、残念ながら、田沼さんは反対派閥によって失脚させられちゃう。(←いつの世も同じかあ。。。)
 ↓
で、ずーーと財政難が続くことになる。


これは、徳川幕府だけじゃなく、諸藩も同様。
ほとんどの藩が、財政難で・・・おまけに、幕府は無理難題を押し付けては、諸藩を取りつぶそうとしてくるわけだし・・。

本当に経済危機で大変な時代だったことだろう。


ここで、ふと思ったのが、とっても対照的な長州藩と会津藩のことだ。

まず、その後の運命を左右するような、関ヶ原の戦いからはじまり、

●会津藩はもちろん、徳川家の譜代大名であり、
会津松平家(保科家)は、保科正之さんが三代将軍から絶対なる信頼を得て23万石となった。


●長州藩毛利家
関ヶ原で、毛利輝元が、西軍の名目上の総大将になってしまい見事に敗れたあと、細々とした外様大名となる。

この両藩が、江戸幕府滅亡となった戦い、戊辰戦争において激しい戦闘をするってのは、ドラマの八重の桜でも出てきたし、有名な白虎隊やら、会津藩の悲劇なんて話は昔から耳にするところだ。


でも、

なんだって、同じ日本人どうしで、しかも幕末の世界の列強国に脅かされてる時に、こんなに激しい戦いをしなきゃならなかったんだろう?


YAE.jpg


そこで、両藩を比較してみると、見事に違うってことが見えてくる。

それはもう、同じ日本人というよりも、まったく別の国、別人種かもしれない。


◆まず、気風、家風についていえば、

会津藩というのは、徳川家光さんから絶対的な信頼を得て保科正之さんが賜った藩であり、子孫代々まで、徳川家に忠誠をつくすべし・・という家訓を残してるくらいの家。
会津の山に囲まれた地形

それに対して長州藩は、もともとは毛利元就さんが三人の息子と共に大きくして確立してきたのが毛利家。

その孫である毛利輝元さんが、関ヶ原のときに、西軍の総大将に祭り上げられてしまったのだが・・・

本来は、吉川広家さん(元就の次男・吉川元春の息子 )は、毛利家のために輝元さんをサポートしてる人で、毛利家も本来は東軍につく予定だったのに・・ええ~、いつのまに、西軍の総大将になっちゃったのよーー!、と焦りまくりで、あわてて徳川家康に根回しをするのだ。
(実は、石田光成びいきの軍師の恵瓊(えけい)に乗せられて、輝元がちゃっかり西軍の総大将になっちゃったよーだ。)

前述したところの、どっちに転んでも大丈夫なように・・ってことだね。

chizu.gif


そこで、吉川広家さんが、さんざん奔走しまくって、ようやく徳川方から、
合戦に参加しなければ戦後の毛利の処遇は、すべて従来通りで領国も安堵するという書状をもらって、とりあえず一安心。

西軍大敗後も、黒田長政さん(徳川さんの信頼厚い武将)から、「今回の輝元には何の処分もないし今後は忠節に励んでくれれば、領地も毛利の安全も保証するよー。」という内容の正式な起請文が届けられたんで、輝元さんも一安心。

なのに~

結局は、徳川方から言いがかりをつけられて、毛利の領地没収の沙汰をもらってしまう。(つまり、毛利家断絶ってことになる。)

そ、そんな~、約束が違うやんか~。
と、怒ったところで、最強の徳川にはなすすべもない。

そこで、こうなったら、なんとか友人に頼んで今度は情に訴えて、ようやく、領地をほんの少しだけ残してもらえることになったのだ。

mori_map.png


112万石から36万9千石・・・3分の一以下という、とんでもない減封だけど、なんとか家名断絶は免れたのだ。
毛利に残った土地は周防国と長門国(現在の山口県)

で、気風、家風についていえば、

徳川家なんて大っきらい!
いつか、時機到来を待って滅ぼしてやるぞ~


寝るときは、江戸に向かって足を向けて寝てやる!

という気風が生まれたよーだ。

毛利家の代々伝わる祝賀の挨拶は、
「(徳川討伐の戦を)いつ始めましょうか?」
「まだ時期尚早である」

・・と言うのが恒例になったそーです。

これ、ほんとかどうかは知らないけど・・それだけ、徳川家が恨みを買ったといういことだけは確かだろうなあ。


そうそう、毛利は現在の山口県、3方を海に囲まれた土地柄で、実際は石高36万なんて取れない貧しい土地。


◆財政難の立て直し方
どこの藩だって財政難、 しかも冷害やら飢饉やらで餓死者はでれば、ますます悪くなる一方。

そこで、その後の両藩の財政立て直し方法を比較してみよう。

●会津藩
1781年に家老となった、田中 玄宰(たなか はるなか)さんが、三代の藩主に仕えた名宰相といわれる方で、見事な財政改革をはじめた。

地場産業として、会津漆器 酒 朝鮮ニンジンを奨励。

audusikki.jpg

教育改革として、日新館を設立 教育に力を入れ、武士の子供は全員10歳から文武両道となるべく学ばせる。
役人、軍人を育てる

●長州藩

●112万石から36万9千石に減らされてしまった長州藩は、スタート時から大ピンチ。
結局3分の2の人員整理、つまり、リストラして乗り切ることになる。
膨大な借金を抱え込み、度重なる幕府からの普請などの要請にあえぐような状態。

●1751年、7代目藩主となった毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)さんが、大改革を行う。
まず、徹底的に見地を行なうと、4万石がみつかった。

ところが、彼は、この4万石の収入を藩財政には組み込まずに、特別会計として、これを資産運用に回すことをはじめたのだ。
ここがすごいところかも。。。

そして、撫育方(ぶいくがた)という、ポジションを設立。
そこで行ったことは、

1、新田開発、塩、ロウ、紙の生産
2、下関港における、 商人への港、倉庫貸出、さらに金融貸付

総合商社として、見事に資産運用させることだった。
まさに、撫育方とは、インキュベーター(英語: incubator)・・・起業に関する支援を行う事業者。広義には既存事業者の新規事業を含む起業支援のための制度、仕組み、施設等を含める場合もある。、と同義語だろう。

武士は、金勘定をするなんて卑しいなんて常識にとらわれてたら、おそらく出来なかった発想だろう(笑)

その結果、時と共に、長州藩は数百万両を蓄えるような、かなりの金持ち藩となっていく。


◆教育


●会津藩・・・・前述したように、日新館で10歳から全員、文武両道となるべく学ばせる。

●長州藩・・藩内に、私塾が106、寺子屋は1000以上もあったそうだ。
つまり、3分の2もリストラされた武士たちがいたわけだし、彼らはもちろん帰農するのだが、当然武士としての教養はある。
そこで、藩すべてに教育が行きわたるようになったのだろう。

なんといっても、有名なのは、松下村塾(しょうかそんじゅく)だろうね。
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作をはじめとして、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らは、明治新政府の首脳となったひとたちがいるわけだからねえ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、両藩をまとめると、こんなふうになる。
mouri.png毛利家aidu.png会津松平家
気風:時機到来で徳川をやっつけろ!
自主独立の気風
常に危機意識を持つ
革新的
徳川幕府に未来永劫、忠誠を尽く
藩士秩序を重んじる
武勇に優れ、勇敢
保守的
場所:三方を海に囲まれている山に囲まれた盆地
学問:武士であっても経済面を学ぶ武士として文武両道に優れる、ただし算術は問題外
産業:塩、蝋、紙会津漆器 酒 朝鮮ニンジン
                     

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうやって見ていくと、実によく違いがわかる。

産業だって、 塩、蝋、紙と、実に一般的で誰でも必要なものに対して、 会津漆器 酒 朝鮮ニンジンといういうのは贅沢品だからね。 苦しい時代になれば、おそらく売れなくなってしまう。

当然のごとく、長州では時代を読む力は早く、いちはやく最新の銃を取り寄せていた。
しかも、しっかり蓄えたお金もあったからねえ。
そして、新しい時代へ向けて新政府を作ることに専念した。

かたや、会津藩は最新の武器はなかったが、他藩に負けない忠誠心は厚く勇敢だった。
当然、最後まで徳川方を支持した・・・当の徳川家が戦意喪失して大政奉還しちゃったあとでさえ、彼らは信義を貫き通した。

iwakuni.jpg

これじゃあ、両藩が見事にぶつかり合うのも納得だ。

この時代の藩というのは、国が違い、人種が違うそれぞれの国とみることもできそうだ。

それこそ、今のロシア、アメリカ、パレスチアなどと同様な違いかもしれない。

大きく気質が違い、教育が違い、育った環境が違えば、ぶつかり合うのは必然で、また、いくら頭で理解できても感情が許せないということもあるだろう。

そう思うと、今、世界で起こっている戦争も、利権を別としたとしても、会津と長州の戦争と大差無いのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・

これが、私たちの歴史なんだと思う。

ただし、これは私が学校教育で教えてもらった歴史ではない。

学校で教えてもらったのは、その時代に何が起こったか、またその人名や地名、年号を覚えるだけで終わってしまったから。

もちろん、そんなことを、それぞれ考えてみる・・というような授業も受けた覚えもない。

私自身も、歴史なんてそんなものかと思っていた。



しかし、おそらく歴史の授業は覚えるとは違うと思うのだ。

せいいっぱい想像力を使い、なぜ?と考えることに意味があるんじゃないだろうか?



たしかに、歴史を勉強したところで、即物的なものや物質的なものを生みだすことはできないだろう。

歴史や考古学はロマンだと言う人もいる。

しかし、ただロマンだけではないだろう。



私は、この国を良い方向に導き、世界を良い方向へ導こうとするときには必須な学問だと思う。

つまり、歴史は、帝王学かもしれない。

天変地異や飢饉を想定して、どうするか?
いかに税を設定するか?
国土を潤す方法は?
物価を安定させるには?
いかに戦争を回避するか?


こういったヒントは、私たちが歩んできた歴史の中に多く含まれていると思う。


おそらく、すべての人々が、歴史からそういった事柄を考えるようになれば、きっと良い世界を作れることだろう。

そう、すべての人のための学問だと思う。

帝王学は決して、政治家志望の人だけのものではない。
すべての人が考えなきゃいけないんじゃないかなあ。


うーーん。


それには、やっぱり・・・まず教育を変える必要があるだろう。

少なくとも、私の中高時代の歴史の授業じゃ意味ないもんなあ。(笑)


たとえば、こういった徳川政権の授業で、

syokason.jpg


なぜ、こんなことが起きたか?
あなただったら、どうする?
天変地異や飢饉を想定して、どうするか?
いかに税を設定するか?
国土を潤す方法は?
物価を安定させるには?
いかに戦争を回避するか?


なんてことを、すべての生徒が考え、ディスカッションする歴史の授業であったなら、

今頃、世界は変わってたかもしれない。


すべての人が、良い国、良い国家にする方法を考えていたら、今頃、世界で戦争なんか起こってなかったかもしれないのだ。


私たちの教育ってのは、

おそらく、当時の会津藩や長州藩の教育水準の高さには、とうてい及ばないだろう。

幕末から明治にかけて活躍した勤王の獅子達は、少なくとも、卑しい身分にかかわらず、それぞれが国を考えていたのだから。

新しいことを学び、そして、それを考えるということを忘れてしまったら、きっと個人にも、国家、世界としても、未来は訪れないんだろうなあ。

結局、想像力(直感力)と考えることが、学問の基本だろうと思うのだ。

それもまた、私が歴史から学んだことだ。

ずーーと大人になってからだけどね(笑)

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Author:gingetsu2010
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