中国人と日本人と論語

時々、レストランにいくと頭にくることがある!
レストランといっても、日本でいうところのフォミレスに近いような店でしかもバイキング形式のレストラン。

子ども連れで大人数で押しかけてきて、大声でわめきちらし、子どもはバタバタしてても注意しないし食べ物は散らかすし・・

おまけに、チキンヌードルスープのおかわりを私が取りにいったときのことだった。

無いのだ!! スープはいっぱいあるのに・・チキンがぜーーんぜん入ってない!

アメリカの一般的なチキンヌードルスープ↓
Chicken-Noodle-Soup.jpg


チキンヌードルスープにチキンが入ってなきゃ、ただのヌードルスープじゃんか!

「どーゆうことよ!」と、プリプリ起りながら席に戻った私に、ホセが言った。

「ああ、さっき、あっちのグループの人たちが、大皿にチキンヌードルスープのチキンだっけをすくって山盛りに持ってきてたよ! スープを捨ててチキンだけ必死にすくってたもん。」

ええ??

そのマナー最悪のグループの連中だった。

それは中国人のグループ。

「どーして中国系ってああゆうヤツらが多いんかなあ?
自分さえよければどーでもいいのか!タダでおかわりできるんだったらスープのチキンだけ食ってやるって・・それってアリ? 他の人のことはなーんも考えないわけ? マナーも無いわけ?」


「おまえって、食べることになるとすぐキレるよなあ。」(笑)

あたりまえだーーー!

君子は義に喩り小人は利に喩るって言葉を知らんのか! 中国人のくせに。」

「一般日本人だって・・そんなの知らないだろ! どーゆー意味だよ。」



君子は義に喩り小人は利に喩る(くんしはぎにさとり、しょうじんはりにさとる)

これは論語で、大人物は倫理や良心にかなってるかどうかで物事を判断するが、小者は利益があるかどうかで判断する





論語ってのは、孔子の言葉を弟子たちがまとめたもので、孔子は紀元前の・・春秋時代の人だったかと思う。

かつて日本の貴族も武士も教養の一環として論語は必須だったようで、時代劇なんかではよく出てくることがある。
そうゆう私も、時代劇やら、時代物アニメなんかからゲットした知識です。


武田信玄さんは、かなり精通してたようだし、直江兼続だって義に生きた人だったわけだし・・。


モラル、倫理観、道徳・・なんてのも義に通ずるものかもしれない。

義を見てせざるは勇なきなり
人としてするべきことをわかっていながらしないのは臆病者だ。



これも論語。

うーーん、ちょっと耳が痛い言葉だよね。


ついでに、こっちは孟子↓

孟子曰く、仁は人の心なり。義は人の路なり。其の路を舎(す)てて由(よ)らず。其の心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな。人、鶏犬の放たるること有らば、則はちこれを求むるを知る。放心有りて、而も求むることを知らず。学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ

仁(思いやり)は人が誰もが持ってるいる心である。 義は人の生きる道である。
ところが人は、その道(義)を捨てて従わず、その良心(仁)を見失っても探し求めない。
嘆かわしいことだ。
人は、買っている鶏や犬が逃げ出せばすぐに捕まえようと探すのに。
自分の良心を失っても、それを探そうとしない。



私がけっこう好きな言葉は↓

子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)

たくさんの知識を蓄えても、自らの頭で考えなければ、本物の(活きた)知識にはならないし、また反対に、いくら考えていても、それを支える知識を身につけなければ、独善に陥る可能性がある



教わるだけじゃなくって自分の頭で考えて、しかも状況を見て客観性も持たなきゃならない・・・ともいえる言葉だと思う。


今の時代って、たしかに倫理観なんてのは地に落ちてるし、「バレなきゃ多少の不正をやってもOKよ!」ってスタンスの企業の不祥事も多いし、アメリカの金融危機にしたって、さまざまな金融商品を作り出した結果の暴走が招いたものだって言われてるし・・・。

結局のところ、倫理観ゼロの金融工学が利を追求した結果、不自然な金融商品が続々と生み出されてて、そこに世界中からお金が集まるようにしちゃったわけだしー、それじゃあ、金融破綻を起すのも当然だよねー。

と、シロウトの私にも理解ができる!


そもそも、そういったエゴというのは、人と人の戦争を生み出すし、もちろん組織や国といった戦いを生み出す。
同時に、現代問題になってる、環境問題、食料、エネルギー問題だって、エゴ的な生き方が生み出したものだもんねー。


もともと欧米は義(倫理観)が無い国だからねー。

だけど、これほど論語の義、仁を理解してたはずの日本が、いつのまにかこんなに・・義の無い国になっちゃったのかなあ?




そういえば、幕末の頃に、佐久間象山という思想家がいたのを思い出した。

syozan.jpg


この頃って、大転換期で大変な時代だったと思うんだよね。
開国して優れた西洋のものをバンバン入れようぜ!って人と、日本国に西洋人なんてとんでもねーぞ、ぶっ殺せ!って人もいただろうし・・。

ところが、象山先生は、東洋道徳・西洋藝術を唱えた人です。

東洋的な思想を基盤に西洋の技術、テクノロジーを取り入れることが、すぐれた国を作る・・・と。

この時代に彼はちゃーんと見通してたんですねー。
東洋と西洋の優れた部分と弱点すらも!



なのに・・・結果、200年後の今は、東洋の思想は消えちゃってるとしか思えない。。。

唯一、私のようなマニアック人間が、アニメや時代劇の言葉から、わずかに知るだけかも。

・・・・・・・

それはそうと、もともとは、これって紀元前の中国のものじゃん!

中国、どーなっとんのよ?

「おそらく、そんなの中国人は誰も知らないんじゃないかなあ。 なんだか日本のおじいちゃんとかの方が知ってるような気がするなあ。」

と、ホセが言う。

そこで、調べてみたところ、

やっぱり・・知らない!ってことがわかったのだ。


毛沢東の文化大革命(1966年から1977年まで続いた)以来、そういった中国の古い書物もすべて焼き払われ、それを読むことも禁じられたのだそうだ。

ある中国人の方の記事を読んだところ、

その人は小学校のとき、お祖父さんから変わった教育を受けたのだそうだ。
一枚の便せんにいくつかの短い文言を書いて、ノートに何百回も書き写せと言う。
それらは「君子和而不同(君子は和して同ぜず)」などと、明らかに現代語とは違った言葉で意味もわからなかったそうだ。

ただ何百回も書かされて、そのうち覚えてしまったが、それは絶対外では口外してはいけないし紙をすぐに燃やされて持ち歩くことも禁じられた。

子どもの頃は不思議に思っていたが、大学生になって文化大革命の意味を知るとともに、それがわかった。
なぜ、そんな危険を冒してまで、祖父は自分に論語を教えようとしたのか。

祖父は孫の少年に、自分の医術をすべて伝授して立派な漢方医に育てるつもりだった。
そして祖父の世代の医術は「仁術」でなければならなかったので、その基礎教育として論語を少年に叩き込んだのである。

彼はそののち、日本に留学する。

<以下抜粋>
日本に来たばかりの頃、神戸の大きな書店で「中国古典」と表示されている一角を見つけた。それは目を見張るほどの光景だった。

「論語」「孟子」「荀子」「墨子」「韓非子」「史記」「春秋左史伝」
などのタイトルの本が、いかにも気品高くずらりと並んでいるのである。
論語に関する本だけでも書棚数段を占めている。
遠い昔の時代に、わが祖国に生まれた孔子様の思想と心は、数千年の時間と数千キロの距離を超えて、
この異国の地に生きていたのだ。まさに驚きと感激の発見であった。


<中略>

それは驚嘆と感激の連続であった。日本の研究者たちは、これほどの深さで論語を理解していたのか。
論語の言葉一つ一つが、様々な角度からその意味を深く掘り下げられて、平易にして心打たれる表現で解説されていた。

しかも、それらの先生方の論語を語る言葉の一つ一つには、孔子という聖人に対する心からの敬愛と、論語の精神に対する全身全霊の傾倒の念が込められていた。

言ってみれば、わが孔子とわが論語は、まさにこの異国の日本の地において、最大の理解者と敬愛者を得た感じであった。

特に、本場の中国において、孔子と論語が、まるでゴミ屑のように一掃されてしまった、「文化大革命」の時代を体験した私には、この対比はあまりにも強烈なものであった。

<中略>

こうして論語を再発見して、改めて日本での生活を省みると、孔子や論語が学問の世界だけでなく、日常生活にも生きていることに気がついた。

たとえば、孔子の思想の中核をなす「仁」と「如」。「仁」とは「人を愛すること」、「如」とは「まごころによる他人への思いやり」
この二つをあわせれば、それはそのまま日本でいう「やさしい心」になるのではないか。

ところが現代の中国語には、この「やさしい」という日本語にそのままぴったりと当てはまる表現がないことに気がついた。

大学で学んでいる頃、同じ四川省出身の女子留学生のCさんから電話があり、中国語で話していた時の事である。
彼女は「我覚得他還是一個很ヤサシイ的人(彼はやっぱりやさしい人間であると思う)」と、
「やさしい」という所だけ日本語をつかった。
そして、同様に「やさしい」という所だけ日本語を使って、「そうだ。僕も彼はやさしい人間だと思う」と相づちを打った。

中国人同士で中国語で話しているのに、どうして「やさしい」という一カ所だけ日本語を使わなければならないのか。
中国の一流学者グループによって編纂された上海商務印書館の『日中辞典』では「やさしい」という一語の意味を、
「善良」「慈悲」「懇切」「温情」「温和」「温順」など10以上の単語を並べて説明している。

しかも、これらの中国語の単語一つ一つは、「もっとも良い人間」を褒め称えるのに用いる最上級の言葉である。
それらを10以上も集めて、ようやく日本語の「やさしい」という一つの言葉の意味を伝えることができるのだ。
それほど、現代中国人の社会では「やさしい」人は希なのである。

しかし、日本では「やさしい人間」はどこにでもいる。
大学のやさしい先生、ボランティアのやさしいおばさん、学生寮のやさしい管理人、八百屋のやさしいおやじさん、、、

現代中国ですでに死語となっている「仁」と「如」は、今や形を変えて「やさしい」という日本語の中に生きている。
そして論語の中でもっとも大切にされている「仁」と「如」の心は、「やさしい」心として、多くの現代日本人の中で息づいているのである。

「孔子の道」も「論語の精神」も、格別に難しい道ではない。
ごく普通の日本人のように「やさしい心」を持って生きていけばそれで良いのだ。
こうして、自分の祖先の古の道を、日本語と日本人とのつきあいを通じて再発見したのである。


もう一つ、孔子と論語がこの上なく強調しているのが「礼」である。
そして、日本に来て早々、大いに感心したのが日本人の礼儀正しさであった。

今でも鮮明に覚えている場面の一つだが、日本留学の身元保証人になっていただいた日本人の家に、初めて招待された時、玄関に入ると、この家の初老の奥様は何と、玄関口に正座して私たちを迎えてくれたのである、
私がお世話になる一留学生の身であるにもかかわらず!

その時に受けた「カルチャーショック」は、まさに「ショック」というべき衝撃であった。
孔子様のいう「礼譲の国」とは、ほかならぬこの日本であると、心の底から感激したのである。

特に、文化大革命以来の、紅衛兵流の荒々しさと「無礼講」が社会的流儀となった中国から来た私にとって、これはあまりに美しく、あまりに優雅に見えた。

孔子の教えは、古代中国で生まれたが、そこでは根付かなかった。
随の時代に導入された科挙制度によって、儒学の知識は官僚になるための国家試験の対象とされ、言わば出世栄達の道具と化した。
さらに毛沢東の文化大革命によって、儒教を含めた中国の伝統思想と文化は根こそぎにされた。

そして、今の中国の大地で生きているわが中国国民こそ、論語の心や儒教の考え方からは、もっとも縁の遠い国民精神の持ち主であると、多くの中国人自身が認めざるを得ない厳然たる現実なのである。

少なくとも、私自身からみれば、世界にも希に見る、最悪の拝金主義にひたすら走りながら、古の伝統とは断絶した精神的貧困の中で、薄っぺらな「愛国主義」に踊らされている、現在のわが中国国民の姿は、まさに目を覆いたくなるような醜いものである。

儒教はその生地では枯渇したが、その種子は日本において花開いた。
儒学の思想と精神を受け継いだのは、中江藤樹や石田梅岩などの求道者を輩出した江戸時代の日本である。
そして、その精神は明治の指導者たちに受け継がれ特に教育勅語に取り入れられて、近代日本の建設の指導的精神となった。

儒教とは、まさに近代日本によって再生され、近代の日本と共に輝いたのである、と言えよう。

そういう意味では、私自身は一人の中国人でありながら、むしろ日本という国と、この国に受け継がれてきた伝統と文化に、親近感と安らぎを感じていて、一種の精神的な同一感を持つようになったわけである。

日本で再発見した中国の理想

そうだったのか!!

だから、私のチキンスープからチキンだけ取ってくヤツがいるわけねー。(←そうじゃないだろ!まだ根に持ってる。)

中国語にはやさしいという言葉がない。

うーーん、そういえば英語にも日本語のやさしいに、ぴったり当てはまるような言葉がないかもしれない。。
そういったバイリンガルたちは、無い言葉に対しては外国語の単語を入れて話すってのは、アメリカでもやくやってることだ。


それに、医術は「仁術」
うーん、なんだか考えさせられることが多い。

医は仁術(いはじんじゅつ、「医は仁術なり」とも)とは、「医は、人命を救う博愛の道である」(広辞苑)ことを意味する格言。特に江戸時代に盛んに用いられたが、その思想的基盤は平安時代まで遡ることができ、また西洋近代医学を取り入れた後も、長く日本の医療倫理の中心的標語として用いられてきた。
「醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。」(貝原益軒『養生訓』
Wikiより



近年は医療の高度化に伴い患者の治療に必要な費用が増加しており、医療機器の購入費用等が病院経営に与える影響が大きくなっているという関係から、この言葉をもじって「医は算術」と語られることがある。実際1980年代前半には、PC用の病院経営シミュレーションゲームとして「医は算術なり」(ハドソン)というソフトが登場したこともある。
Wikiより



あー、だめだこりゃ!

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