天皇国家を呪った崇徳天皇

きょうは、三大怨霊の最後の人、崇徳天皇をみてみましょう。


では、まず、簡単にバックグラウンドの紹介からいきます。

この方は、天皇家の高貴な血筋ではあるんですが・・・生まれながらに複雑な、不幸な環境に、ずーーといた方です。

まず、白河天皇(上皇)の息子の堀川天皇がいて、その息子が鳥羽天皇で、そのまた息子が、崇徳天皇ということになってるんだけど・・・・・・実は、崇徳天皇は、白河天皇の実子とされている記述もあるらしい~

つまり、鳥羽天皇の奥さんであった、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)と、その、じいさんの白河さんと不倫で生まれた子供が、崇徳さんというわけ。

待賢門院璋子さんは、結婚前から、ずっと、じいさんの白河さんのところにいた人で、結婚後もその関係は、ずっと続いていたんだとか~。

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この当時の天皇家って、もう、なんでもアリだったんですね~。 とにかく、白河さんて人は、長きに渡って権力を握ってましたからね~。

そんなわけで、お父さんの鳥羽さんは、崇徳さんが大っきらい!だったんですね~。

ああ~実際、お父さんじゃないわけだし~。
白河さんは鳥羽さんの祖父だし、祖父の子は叔父になるわけなんで、鳥羽さんは崇徳さんを「叔父子」と言って忌み嫌ってたそうです。

しかし、やりたい放題の白河さんにとっては、年をとってからの我が子、崇徳さんが、めちゃかわいい!
そこで、まだ5歳のときに、天皇の位につけちゃいます。

そのときの鳥羽さんは、たしか、まだ20歳くらいで、ちゃんと天皇として位についてたのに・・・「おまえ、そろそろ引退しろ!崇徳は5歳になったから、天皇にするぞ!」と、おそらく、そんなカンジだったんでしょうかね?

この当時の天皇ってのは、まあ、お飾りみたいなもんだから・・20歳だろうが、5歳だろうが・・どっちでも変わらなかったとは思いますけどね~。でも、かわいい息子を天皇にしておきたかったんでしょうね!

当時は、天皇を引退した後、息子に位を譲って、○○院と呼ばれるようになってから、はじめて、政治の実権を握れるという形でしたから。 
それが、院政と呼ばれたわけです。

つまり、この当時は、じいさんの白河さんこと、白河院が権力者だったわけで、すべてが、彼の思惑通り、勝手放題だったわけです。
息子や孫の女に手を出すなんてくらいですからね~。

さて、好き放題やって長生きした白河さんも、ようやく死ぬときがきます。

そこで、待ってました!とばかり・・・鳥羽さんが、今までのリベンジをはじめる!

鳥羽さんは、それまで白河院(法皇)よりだった人々を左遷し、逆に、遠ざけられていた人々を復権させ、さらに崇徳の子孫が皇位につけないよう、罠をしかけるんですね~。

鳥羽さんは、寵愛していた美福門院得子(びふくもんいんとくし)の生んだ3歳の子、体仁親王(なりひとしんのう)を養子にするよう、崇徳にすすめます。(ちなみに、正妻の、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)のことは嫌ってました!叔父子を生んだ人ですから・・。)
その上で体仁親王(近衛天皇のこと)を天皇に立てて、鳥羽さんは譲位し、院政を行ってはどうかな?・・・と、崇徳にすすめたようです。

自分の息子が天皇になれば、その父親として、院政が行える、政治が行えるってわけですからね。

おそらく、鳥羽さんは、罠とも知らずに喜んだでしょうねえ。。。

しかし、近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていた!んですって。

つまり、崇徳さんは「子」ではなく「弟」に譲位しちゃったことになります。
「子」じゃなきゃ、院政は行えない・・・自分の子が即位しない限りは、蚊帳の外なんですよ~。

こうなると、崇徳さんも、崇徳さんの血筋の子孫も、このままでは、表舞台には永久にあがれない。。。

それが、鳥羽さんのねらいだったわけですから!

いやあ、天皇家って、ドロドロの世界ですねえ~!
だいたい、政治の中枢が、こんなことしてて、いいんかい!
地方では、問題山積みだし、荒廃してきてるんだよーー。


さて、そこで、お飾りで即位させられた、近衛天皇は、もともと体が弱く、17歳で亡くなります。
おまけに、まだ、子供もいない!

崇徳さん、ここでチャンス到来!

「これで我が子、重仁が即位すれば天皇の父として院政を行える」
まあ、フツウなら、これが順序ですからね~。

しかし、鳥羽さんと最愛の美福門院さんは、次の手をこうじます!

そもそも、美福門院さんは、養子だった守仁親王(のちの二条天皇)を皇位につけたかったらしいです。

しかし、先例によれば、父親が天皇でなければ皇位につけられない。
そこで、とりあえず、雅仁親王(のちの後白河天皇)をまず、天皇につけて、すぐに、譲位させて、守仁親王が天皇になる。・・・・という計画。
(守仁親王(のちの二条天皇)は、雅仁親王(のちの後白河天皇)の息子で、美福門院さんの養子になってた。)


雅仁親王(のちの後白河天皇)って人は、実は、この当時は、ものすごーい問題児、今様狂い、変人とされていて、誰もが皇位につけようなんて思ってなかった人だったんです。たしか、当時、30歳前だったはずですが・・。

良家のご子息なのに、一流大学をドロップアウトしちゃって、ロックコンサートに入りびたって、高価なギターばっかり買ってるヤツなんか、お父様の後継者として会社をつがせるわけにはいかない!・・・・たぶん、そんな存在だったんだと思います。

いわゆる天皇家のはみ出し者だったんですね。
・・・しかし、この人は以外にも、天皇の位につけられたら、言いなりになって、さっさと譲位するどころか、したたかに、天下を牛耳られてしまうんですけどね~。

そして、この鳥羽さんと美福門院さんの計画どおりに事が運びます。
完全に、崇徳さんは、追いやられてしまいます。

もう、完全にアウト! 崇徳さん、失意のどん底

そこで、いよいよ保元の乱へと発展していくことになるんですね。

1156年(保元元年)保元の乱は、天皇家の家督争い摂関家の内部抗争と、それに武士の源氏と平家のそれぞれの思惑がからみついて起こった争いってわけです。

ちなみに、摂関家の争いってのは・・・関白藤原忠実には長男忠通、次男頼長がいました。
なぜか、忠実は、次男頼長を偏愛してました。
忠実は長男頼通を嫌う一方、次男頼長をろこつに支援し、そのことで一族内に対立が激しくなってたわけです。

まあ、天皇家と似たような状況ですなあ。。。

なにやってんだか・・どいつもこいつも!

そこで、後白河天皇は忠通を信頼し、後白河-忠通組ができて、
対するは、失意の崇徳さんは、忠実・頼長父子と結びついて、崇徳-藤原忠実・頼長組
そこに、さらに、源氏と平家のそれぞれの親子、兄弟、親族が敵味方となってついたわけです。

なんだか、「類は類をよぶ」、「引き寄せの法則」・・・みたいなカンジで、似たもの同士が集まって敵対していった観があります。
まったく、どーしようもなく、意味の無い戦いとしか思えないんですけどね~。


そんな中、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が崩御
崇徳さんは、知らせを聞くと、すぐに、鳥羽殿へかけつけます。

自分があれほど嫌われてるのに・・・彼は、それでも父親を愛してたんでしょうか?
いや、父の愛が欲しかったんでしょうかね?
それとも、ちょっとオバカ、いや純粋すぎる人だった?

ところが、結果は、父の死に目にも会わしてもらえなかったんですよ!
中に入ることは許されず・・というのも、鳥羽さんは「崇徳に自分の死に顔を見せるな」と遺言していたそうです。

がーーーん。 崇徳さん、ものすごーいショック!
それほどまでに、この僕を嫌ってたのか~!!(←そーだよ!今頃、わかったんかい!)


そこに追い討ちをかけるように、後白河天皇方の挑発が始まる。

つまり、わざと、崇徳側に乱を起させて、大義名分を持って失脚させちゃおうというわけです。
まだ、決起したわけじゃなかったんですけどね~。

後白河さん側って、一枚上手なんですね~。 そうそう、信西って小賢しい策士もいましたからね~。

そこで、だんだん・・追い詰められた崇徳側は、もう、やるっきゃない!後が無い!ところまで追い詰められる。

いよいよ、保元の乱、開始~。

しかし、戦術においても、すべてまさっているのは、後白河側でした。
崇徳さん側、惨敗。

崇徳さんは、必死で落ち延びようと、さまよい歩きますが、どこにも、かくまってくれるとこなんてないんですね~。

「叩けども音せず。世界広しといえども立入らせ給うべき所もなし」(保元物語から)

ついに、弟の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)を頼って仁和寺に入ったんだけど・・・・、覚性法親王は、すぐに、後白河方に通報しちゃったそうです。。。

結局、捕らわれて、隠岐に流される。

隠岐では、精進の日々を送り、三年がかりで血書で、五部大乗経(天台大師が選んだ五部の重要な大乗経典のことで、華厳(けごん)・大集(だいじゆう)・般若(はんにや)・法華(ほけ)・涅槃(ねはん)の五経。五部の大乗経。)を写経して、都へ奉納したそうです。

これ全部写経する人って、他にいるんでしょうかね
もーーーーのすごーーーーい量のはずです。。。

しかも、ほんとに血で書いた?としたら、怖っ!

どんなに国家平安を願って、真摯な心で写経したかどーかは知りませんが・・・とにかく・・それって、怖いです。
もう、ほとんど執念の塊!


案の定、都では受け取ってもらえず、冷たく、つき返してきました。

五部大乗経の奉納さえも許されなかった崇徳院さん、もう、完全に、

崇徳さんは自分の舌を噛み切り、 「我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん、この経を魔道に回向(えこう)す」
(回向とは捧げるという意味)」
という呪いの文言を、流れる血で送り返された写本に書きつけ瀬戸の海に沈めました。

また、かよ~。

それ以来、髪も剃らず、爪も切らず、生きながらの天狗の姿になったという記述があります。
つまり、生きているうちから、自ら怨霊宣言をしたってことです!

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我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん
これは、皇を民の地位に落し、民を皇の地位へ引き上げるということですね。

つまり、天皇家なんて、天皇の政治なんて、なくしてしまえ~! 民が政治をやってしまえ!って、呪いなんだと思います。

ほとんどの怨霊は、自分を陥れた人や害をなした人を呪うんですが、崇徳さんは、天皇家を呪ったんですね~。
天皇家なんか崩壊してしまえ!と。

自分の出生にはじまり、天皇となってもただのお飾り状態だったし(そもそも、2歳、3歳児を天皇にしちゃうわけだしね~。)、ドロドロの親子関係に、それぞれの利権が入り乱れた愛憎劇から戦争になって、左遷、嫌われ者!落伍者!の人生でしたから。

そりゃ、うんざりするのもわかります。

彼の人生って、ずーーと、そんな中で耐えながら、いつか、自分が院政を行うこと、を夢見てきたんでしょうかね?

そんな世界、さっさと飛び出しちゃって、歌人として生きてもよかったし、雅楽の編集するとか、史書の研究家とか、または外の世界に飛び出すでも・・なんでも、できたでしょうに~。

放蕩息子の弟だった、雅仁親王(のちの後白河天皇)みたいな人生は、考えられなかったんですかね?
兄弟でありながら、まったく性格は違うし、そして運命も・・・皮肉なもんですなあ。

まあ、閉ざされた世界でマジメに生きてると、目的は、それしか見えなくなっちゃうものかもしれません。
江戸城大奥の女たちと、同じようなものかもしれませんね~(笑)


〈怨霊の祟り〉

●その後の平治の乱で、武家の平氏が政治の実権を握る。
●藤原信西、後白河側についた源義朝が殺され、1165年、祟徳の死の翌年、二条天皇が23歳で病死、次を継いだ六条天皇もわずか12歳で死亡。

●京では火災が相次ぎ、1178年の大火事では、大極殿を含む京の三分の一が灰塵に帰した。

●1221年、承久の変で破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐へ幕府によってそれぞれ配流され、仲恭天皇は廃される。

●身分が低かったはずの民(平氏や源氏)が天下を取り、さらに、65年後には皇(後鳥羽)が民によって流罪となる。

人々は崇徳のタタリが実現した・・・崇徳は怨霊となって呪いを実現させた・・・と震え上がったそうです。

江戸時代になっても、歴代の高松藩主は崇徳陵を手厚く祀っています。

●1868年、幕末の慶応4年。
睦仁親王(後の明治天皇)は、崇徳の霊を慰めるため、勅使を讃岐に送る。

薩長側について、幕府を討ち、天皇制を復活させるにあたって、やっぱり恐怖だったんでしょうか。
それ以降の天皇、昭和天皇の時代にも、現在の天皇家では、ずっと崇徳の霊を丁重に祀ってるようです。

まあ、でも明治天皇は、王政復古になったところで、崇徳さんは祟る気はなかったのかもしれませんけどね(笑)

(明治天皇)

薩長土肥、及び岩倉具視などの開国倒幕派にとって孝明天皇と孝明天皇の信任が厚かった徳川家茂は、いずれも彼等の理想を阻む厄介な存在だった。それに両者は和宮を通じて義兄弟なのである。

そこで、孝明天皇は将軍家茂ともども暗殺され、幼君睦仁親王まで替え玉と取り替えられた、というのである。

なんだか怪しげな話のようにも思われるが、一概にそうとも言えない。なにせ昭和 4年 2月に永年宮内大臣を勤めた田中光顕(たなか・みつあき)が次のように述べているのだ。
------------------------------------------------------------
 「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。

孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急に殺されて崩御になり、世間には、明治天皇は孝明天皇(北朝系)の皇子であり、母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになったということになっており、御名を睦仁親王といい、父である孝明天皇崩御と同時に直ちに大統を継いだことになっているが、実は、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇(南朝系)の第 11番目の皇子光良親王の子孫で長州萩で毛利氏が守護してきた。

薩摩と長州の間には、この南朝の末孫を天皇にすると言う密約があり、これが王政復古御一新を志した勤皇の運動である」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり明治維新とは、徳川幕府が倒れて薩長の新政府が誕生した、というばかりではなく、天皇も北朝から南朝に代わったのだ。

ではその入れ替わった明治天皇には、いったい誰がなったのであろうか?

それは後醍醐天皇の末裔の 「大室寅之祐」 という方であるとのことだ。明治天皇は相撲が好きで、側近の誰彼なく相撲をとられたそうだが、それもその筈、かって奇兵隊の力士隊だったのだから当然だろう。
(Today's Topicsより引用)



そういえば、崇徳天皇は、こんな歌を詠んでました。 百人一首に入ってます!

瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の
われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ


川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれて、また1つになるように、愛しい人と今は分かれても、いつか、きっと再会しようと思っている、という、いちおうは、恋の歌とされてるんですけどね~。

なんか、激しさを感じさせる歌ですねえ。
思い込みの激しさ・・・・ロマンチックな一途な恋とされてる歌ですが・・・。


崇徳天皇は和歌を愛し、文化振興にも理解が深く、和歌を通して西行とも親しかったらしく、死後、西行は、彼の墓所である、白峰御陵をおとづれているそうです。

また、逃亡中の仁和寺にも、自分の身の危険もかえりみずに、会いにいったそうです。
(西行さんは、崇徳さんのお母さんの、待賢門院璋子を愛してしまい、それをきっかけに、エリート街道を捨てて出家しちゃった人です。みなさん、色々ありますなあ。)
ちゃーんと、心配してくれる人だって、いたんじゃないですか~。


「民を皇となさん」が実現し、明治天皇にも手厚く祀られ、今や怨霊は、江戸~東京を経て、守り神となっているんでしょうか?

まさに、怨霊と神は紙一重なんですかね~。

2010年と、ちょっと古いんですが・・・この番組の中でも崇徳天皇が出てきます。↓
太陽と怨霊と天皇が守る日本!_たけしの教科書にのらない日本人の謎より
2時間のスペシャル番組で、長いんですけど・・評判はよかったみたいです。

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日々の生活や体験の中から、社会のこと、スピリチュアルなことなど・・思いつくままに書きつらねてます。

皆様にも「スピリチャアルの意味」「生きる意味」を感じて頂けたら、幸いです!☆

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