菅原道真の怨霊は今

前回の幽霊の話題から、ふと日本の三大怨霊などというものを思い出したので、それって誰だったっけ?・・・と、調べて見た。

菅原道真(すがわらのみちざね)
平将門(たいらのまさかど)
崇徳天皇(すとくてんのう)


この3人なのだそうです。

別にこれ以外でも、強烈~な怨霊になってしまった有名な人はいたわけですが、なんで? 誰が?この3人と決めたのかは・・よくわかりません。
いずれも、天下を動かすようなトップの座にいたような人たちだからでしょうかね?

いやいや、それならば、なんで、早良親王(さわらしんのう)が入ってないんだ??

早良親王は、あの桓武天皇の実弟であり、桓武さんをはじめとする陰謀によって無実の罪を着せられてしまった人。
そこで、彼は絶食して憤死を遂げたあと、桓武さんの周りの人々に、ことごとく祟りを及ぼした人として有名。

そのせいで、平城京を捨てて、新しい都、平安京に遷都した・・という話もあるほどだからなあ。。。

それほどの人なのに、日本三大怨霊から、漏れてしまったのはなぜだろう?
単に、時代が一番古かったことと、3人だけ選ぶ都合上、カットされたのかもしれないが・・。


まあ、他にも漏れていそうな人物はいるものの、とりあえず、誰が決めたかわからない、この三大怨霊を見てみましょう。
とりあえず、きょうは、菅原道真さんを。

菅原道真(すがわらのみちざね)

今や、全国にある天満宮に祀られていて、「学問の神様」として有名になってる人だ。
そもそも、天満とか○○神(じんぐう)のように、がつくところは、天皇を祀るところなのだそうだ。○○大社とは格が違うということなんだろう。

しかし、菅原道真は天皇ではない。 
平安時代、宇多天皇の時代に、右大臣だった人だ。
michi.jpg

天皇でもなかったのに、宮がつくような神社に祀られるってことには?
そう、ちゃーんと意味があるのだ。

つまり、それだけ、人々が菅原道真の怨霊を恐れたから! 
天皇と同格の神社を与えて、祀って、怨霊を鎮めようとした・・・それって、ゴマすったとも言えるかもしれない(笑)

これって、いかにも現世の人間の考え方らしいなあ。
実際、死んだ人に官位を与えたり、格上の神社に祀ったところで、どーなんよ。。。
そんなことするなら、生きてるうちにしろ!って私は、思うんですけどね~(笑)

つまり・・・祀るということは、死者のためというよりも現世の人間のためなのかも。


さて、まずは、道真さんの子供の頃からを見ていきましょう。

やはり、彼は、おそるべき、超天才児だった。

菅原家というのは、代々「文章道」を研究する、中流貴族の家系だったらしいが、それにしても、百年に一度出るかといわれたような天才だったらしい。

はじめて作った和歌が5歳のときというし、これ↓

梅の花 紅の色にも似たるかな 阿古がほほにもつけたくぞある

阿古(あこ)というのは、道真さんの子供のときの名前。

うーん、なんとも・・かわいらしい歌だなあ。

そして、11才で漢詩を作ってる。
それが、これ↓
michi1.jpg

月耀如晴雪 (月の輝きは晴れたる雪のごとく)
梅花似照星 (梅の花は照れる星に似たり)
可憐金鏡転 (憐れむべし 金鏡転り)
庭上玉房馨 (庭上に玉房の馨れるを)


「月夜に梅花を見る」というお題で作ったのだそうだ・・・。

その後、18歳で、文章生(もんじょうせい)に合格、23歳で文章得業生(もんじょうとくぎょうせい)、26歳で方略試(ほうりゃくし)に合格、そして33歳で、文章博士(もんじょうはかせ)という異例の昇進を遂げてしまいます。

現在風にいえば、最年少で飛び級で、灘高→東大→国家試験に合格→東大教授、ってとこでしょうかね?

しかも、ガチガチの秀才とは違って、優れた詩歌を残す詩人でもあり、弓の名手だったそうですよ。

百人一種にも、選出された歌がありましたっけね。
       ↓
このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに
(このたびは ぬさもとりあえず たむけやま、もみぢのにしき かみのまにまに)

注: 幣(ぬさ)ってのは、神への捧げ物のことで、旅に出る時、紙または絹を細かく切ったものを袋に入れて持参し、道祖神の前でまき散らす。

天皇のお供で、急に出かけることになっちゃって、幣の用意をするヒマもなかった。ところが、手向山にくると、なんとまあ、見事な紅葉! まるで錦を織り成すようではないか!これを切って幣にしますんで、どうぞ神様、御心のままにお受け取りください。

こんな内容の歌なんですが、山の一面の紅葉を錦、絹にみたててしまうところなんぞ、なんとまあ、風雅な。。。

また、 それよりも以前に、国家最高といわれる文官の試験の課題論文で、彼は、魂魄を徴せ(こんぱくをあらわせ)というのを書いてます。

なんとなあ、すごい題名ですなあ。。。これって、彼が作った題名ではなく、試験問題の課題だったようですが・・。

その内容は、

魂魄を徴せ

人の身に魂魄あり
死を以て其は離散す
死して魂気天へ昇き(いき)
魄気下降し鬼と化す


人は身には、みな魂魄がある。それは互いに拘束して離れることはないが、人が死ぬと離散する。
死んだ者の魂気は、天に上がりて神となり、魄気は下降して鬼(き)となる。



鬼(き)というのは、ここれは、幽霊、それも怨霊と考えていいと思います。

ちなみに、もう少し解説をつけると、

天(火・魂)は、魂気は天の蔵するところにて陽
肝にありて木に属して理。

地(水・魄)
魄気は、識に附して用い(はたらき)陰、肺に入りて金に属して性。

あらら? もっとわからなくなりました。。。

ようるするに、陰陽五行説の考え方で、すべては、陽と陰、そして、木火土金水に分類すると、天は陽の火であり、地は陰の水であり、この正反対と見えるものもまた、木火土金水へと、さまざまに変化しお互いにかかわりあっている。・・・・という解釈でしょうかね? ←じつに、おおまかな解説ですみません・・。

さて、本題に戻して・・・天才で秀才の道真さんは、いまだ、身分は低いながらも(従五位くらいの身分だったか・・。)突然、大抜擢されて、讃岐守(さぬきのもり)になります。
*通常だと、従五位の身分じゃ、与えられないような任務で、せめて、正四位くらいじゃないとダメだったらしいです。

今でいうところの、讃岐の国の県知事ですね~。

参考までに・・・・当時の身分には、30のランクあったそうなんで、上から順に↓

「正一位」「従一位」「正二位」「従二位」「正三位」「従三位」「正四位上」「正四位下」
「従四位上」「従四位下」「正五位上」「正五位下」「従五位上」「従五位下」「正六位上」
「正六位下」「従六位上」「従六位下」「正七位上」「正七位下」「従七位上」「従七位下」
「正八位上」「正八位下」「従八位上」「従八位下」「大初位上」「大初位下」「少初位上」
「少初位下」

●このランクに応じて「太政大臣」や「大納言」や「文章博士」などという仕事が与えられるというシステム。




讃岐の国では、財産破綻しかけてた讃岐の国を立ち直らせ、しかも、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)と呼ばれた、太政大臣「藤原基経」によるストライキが起こったときも、見事に事件を解決しちゃうんです。

道真さんは、藤原基経に対して、彼を納得させ、しかも感心させるほどの内容の手紙を送り、怒りを収めさせてしまったんですって~。

さて、そこで、めちゃめちゃ喜んだのは、当時の天皇だった宇多天皇
道真さんを呼び寄せた後、彼を深く信用し、どんどん、どんどん、出世させちゃいます。

ついに、参議にまで出世しちゃいます。
*参議とは、太政官以外で国政の会議に出席出来る役職

この時の太政官・参議は14人、そのうちの7人が「藤原氏」、
6人が「源氏(源とは、皇族から臣下に下った人達に与えられる姓)」
残りの一人が菅原道真だったそうです。



しかし、道真さんは、まったくひるまない(笑) ひたすら国家のために革新的に働いたようです。

また、宇多天皇も、中央集権国家で、天皇が中心となって自ら政治を行う事を目指していたため、その最強のブレーンとしても、道真さんを買っていたようです。

そりゃまあ、周囲の人たちは面白くないでしょうねえ。

とくに藤原一族は、なんとか政治の実権を握りたい人たちだっただろうし・・それほどの出自でもないくせに、めちゃめちゃ頭はいいし、天皇の信頼も厚いとなれば・・・・さまざまな人々の、様々の妬みが渦巻いてたことでしょう。

そこで、894年、日本政府は、また、遣唐使(けんとうし)の派遣を決定、菅原道真は「遣唐大使(けんとうたいし・遣唐使の責任者)」に任命されます。

遣唐使というのは、帰ってくれば、そりゃ、めちゃめちゃ箔がつくんだけど、なんせ、この時代は命がけ。
なんせ、当時の船で唐に行きつけるかどうか、戻ってこられるかどうか・・って時代でしたから。

おそらく、厄介払いのために、任命されちゃったんじゃないかと思いますけどね~。
または、途中で暗殺しちゃう、そんな陰謀もあったのかも。。。

しかし、これは、実現しません。

道真が、遣唐使の派遣の廃止を宇多天皇に求めたからです。

理由は、
●遣唐使の目的の一つであった「唐の仏教典を持ち帰ること」が、ほぼ達成されていたこと。
●「唐の国の衰え」
●その状況下で、国益を使い「渡航途中の遭難」「海賊などによる危険」を押してまで遣唐使を出すメリットがない、ということが理由です。

道真さんが、陰謀の匂いをかぎつけていたのかどうかはわからないし、ひょっとしたら、まったく気がついてなく、ただ、正当な必要性のみから、出した答えだったのかもしれません。

なーんか、そんな人だったんじゃないかな?って気もしますんで・・。

これによって630年から264年続いた遣唐使は、894年に廃止されることになった。
あ、なんか歴史の授業で、(894年)遣唐使廃止を、「白紙(894)に戻る遣唐使」って覚えさせられたような記憶が蘇りました・・・。


さて、その後、
895年、参議の先輩方を5人抜きで「中納言(ちゅうなごん)」、
897年には「大納言(だいなごん)」に昇進。

897年には、宇多天皇は皇太子に位を譲り、上皇となって引退。

新天皇、醍醐天皇(だいごてんのう)になるのだが、この時、

宇多上皇は「天皇の判断に任せる話は、藤原時平(ふじわらのときひら)と菅原道真に執り行わせなさい。」と他の貴族達に言いつけるんですよね~。

そりゃ~、他の参議のメンバーは、面目、丸つぶれ!
俺たちは、そんなに無能なんかぁぁ~!!

そこで、怒った、源光(みなもとのひかる)」と一部の貴族達は仕事を放棄するという事件が発生。
まあ、なんとか、おさまったものの、そろそろ暗雲が立ち込める・・・ってカンジですかね。

それにしても、宇多さんて、罪なことをするなあ~。

さて、醍醐天皇は、とりあえずは、父の言いつけを守って、

899年に、菅原道真を「右大臣(うだいじん)」、藤原時平を「左大臣(さだいじん)」に任命し、摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)は任命せず、天皇親政の体制をひきます。

同じく、899年、宇多上皇は出家し、政治の世界から遠ざかる。

うーーむ、後ろ盾が無くなった菅原道真は、危険な立場になりつつあるかも。

900年、漢学者の三善清行(みよしよしゆき)は菅原道真に対して手紙を送る。

内容は、 「占いによると来年は革命が起こる大変革の年だから出過ぎた行動は慎みましょう。」

これって、つまりは、遠回しに辞任を勧める手紙なんですね。

三善清行(みよしよしゆき)さんは、漢学者であり、どちらかといえば、菅原道真のライバル的な立場。


なので、親切で書いた手紙なのか、びびらせるために書いたのか、どんな思惑があったのかはわかりませんが・・あんまり、いいカンジはしません。。。

901年 突然、事件は勃発。
「菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)に任命する。」との詔が出される。

これって、その当時は、地の果てのような「大宰府」の役所の長官なんだけど、実際には、仕事もない、左遷のために作られた役職ってわけです。

左遷の理由は、
「菅原道真は低い身分の家系から右大臣にまで出世したのに分をわきまえず、宇多上皇の信任を裏切って醍醐天皇を辞めさせ、自分の娘の嫁いでいた斉世親王(とこよしんのう)を皇位につけようとした。」

…ということだそうだ。

どこで、どうなって、こんな話になっちゃうの~!と、道真さんもびっくりだったでしょう。

しかし、世の中、どの時代においても、こんなもんですねえ。

なんでもいいから、こじつけて罪を捏造してしまえば、権力者がやったことを、真剣に調べてくれる人もいない。

出る釘は打たれる・・・。

低い身分だったのに、超優秀、天才学者であり、政治にも見事な手腕を発揮、異例の出世を遂げる・・・となれば、それだけで、あまたの敵を作るってことでしょう。

どの時代においても、人の妬みは怖い。。。

この話を聞いてびっくりした宇多上皇は、直ちに処分の停止を醍醐天皇に訴えるために宮中へと急ぎ、醍醐天皇と会おうとします。
ところが、蔵人頭・藤原菅根(ふじわらのすがね)が醍醐天皇に取り次がず、宇多上皇は夜まで裸足のまま門の前に立ちつくしていたそうです。

うーーん、宇多上皇は、ほんとうに心から、道真さんを信頼してたんでしょうね~

901年2月1日、菅原道真は一言の弁解も受け入れて貰えないまま、幼い2人の子供と弟子、味酒安行(うまさけのやすゆき)を連れて大宰府へと左遷されてしまう。
また、菅原道真の4人の息子達も土佐や駿河など、バラバラの僻地に左遷されてしまいました。


菅原道真は大宰府へ出発する前、自宅の梅の木を眺めて詠んだ歌が有名でしたね。

東風(こち)吹かば 思い起こせよ 梅の花 主無しとて 春を忘るな
(春の風が吹いたら咲いて香りを届けておくれ。梅の花よ、主人が居なくなっても春を忘れるな)

うーーん、未練たっぷり。 絶対、戻ってくるぞ!という執念さえ感じる歌ですねえ。。。

「なーんも悪いことしてないし、国のためを思い、今まで一生懸命やってきたのに!」という思いでいっぱいだったでしょう。


その後、大宰府へ左遷された菅原道真の生活はかなり悲惨なものだったようです。
この当時、左遷といっても、ほとんど罪人と変わりないですからね~。

床が抜けたり、雨漏りがするようなあばら家で食にも困るような生活をしいられ、二人の幼い子供は死に、もともと持病をかかえていた道真も病気になり、903年の2年後には、その地で亡くなったそうです。

さて、それから、です!

いよいよ、怨霊騒ぎ

●906年、菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)が40歳の若さで急死。

●908年、菅原道真の左遷が決定した際、「醍醐天皇(だいごてんのう)」に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ、藤原菅根(ふじわらのすがね)は、雷に打たれて死亡。

●909年、藤原時平は右大臣であり、道真を失脚させた張本人の1人。 だんだん狂気を見せるようになり、彼の死の直前には、天台の高僧・浄蔵を呼んで、悪霊退散の祈祷をやらせたところ、両耳から1匹ずつヘビが出てきたので、浄蔵は、それを退治しようとしたところ、ヘビは、「時平の悪事」を挙げて懇々と説得したという。
そこで、祈祷をやめて退散、とうとう藤原時平は狂死。

●913年、貴族たちの集団職務放棄事件の中心人物だった源光(みなもとのひかる)は、道真の後、ちゃっかり右大臣に納まっていた。 鷹狩りの最中に、乗馬したままあやまって沼地にハマり、そこが底なし沼のため、脱出することができずに溺死。 遺体も上がらず。

●923年、醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった、保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死。病気らしい病気もしてない中での突然死。

●925年、保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう)が5歳で死亡。

●930年、醍醐天皇(だいごてんのう)は体調を崩し天皇の位をわずか8歳の皇太子・寛明親王(ひろあきらしんのう)に譲り、朱雀天皇(すざくてんのう)が即位、その譲位の1週間後、醍醐天皇は、46歳で急死。

●936年、藤原時平の長男・藤原保忠(ふじわらのやすただ)」も物の怪に取り憑かれ、僧に祈祷をさせたが、その場で狂死。


ああー、全ては書ききれないんだけど、まだまだ、います。

藤原時平の息子達も幼くして亡くなってるし、

その後も国内では、疫病や干ばつなどが相次いで起こり、その干ばつ対策の会議中、930年6月の午後1時頃、会議場となっていた、清涼殿に落雷
大納言の、藤原清貫(ふじわらのきよつら)など5人の貴族・女官が死傷する。

また、怪奇現象が続いたため、朝廷は菅原道真の怨霊を鎮めるために、菅原道真を大宰府へ左遷という、詔に関する全ての書類を焼き捨てようとしたところ、その火が周囲に燃え移って広がり、その場にいた僧侶や役人を焼死させてしまうという事件も勃発。

落雷で死亡した人(いずれも事件に関与してた人物)が多かったことから、 「菅原道真の怨霊は雷神となり、神罰を与えようとしているに違いない!!」ということになり、朝廷はパニック!


それから、また数年がたちます。

夢の中で、菅原道真が現れ、どうか自分を祀って欲しい・・というお告げを聞いたという少女が現れた。
この話を聞いた、当時の右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、952年、その社を増築し、これが現在の北野天満宮(きたのてんまんぐう)というわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

菅原道真は、身に覚えの無い罪をでっちあげられて、大宰府に流されて失意のうちに病死してしまったわけで、、死後、怨霊となり、ことごとく関係者に恨みをはらしていった・・・というのは、ただの偶然だったのか、なーんてことは、わかるはずもない話です。

しかし、当時の人々、とくに、道真を追いやった人々は、当然、信じていたでしょうし、「あーー、次は自分の番だ!」と、恐れおののく日々だったんでしょう。

突然、雷に貫かれて、「肉は裂け黒こげになる」なんて・・・目撃した人だって、スプラッターですもん。

彼ほどの秀才で道理を知る人でも、こんな目にあうと、怨霊になってしまうんだろうか?

恨みをはらさんではおかんぞ!と思ってしまうものだろうか?

また、これほどまでの天変地異までおこせるパワーを持っていたのは、ひとえに、彼の、恨み念の強さか?
それとも、博識でパワーの知識を身につけていた?

そういえば、生前、道真の部下?友人?だった人で、東北に左遷させられてしまった、藤原滋実(しげさね)という人がいました。

そのとき、道真さんは、奥州藤使君(あうしうとうしくん)を哭すという漢詩を送ってます。

これは、誄歌(るいか)と言って、死んだ滋実さんに訴えるための漢詩だそうです。(もともとは、死者の生前の徳をたたえる鎮魂歌のようなもの)
     ↓  

一言遺在耳  一言いつげん 遺のこりて耳に在あり
曰吾被陰徳  曰いはく「吾われ 陰徳を被かうむれり
死生将報爾  死すとも生くとも 爾なんぢに報いんとす」と
惟魂而有霊  惟これ魂にして霊有らば
莫忘旧知己  旧もとの知己ちきを忘るること莫なかれ
唯要持本性  唯ただ 要もとむるは 本性(ほんせい)を持し
終無所傾倚  終つひに傾倚(けいい) する所無からんことのみ
君瞰我凶慝  君 我が凶慝(きようとく)を瞰みたまはば
撃我如神鬼  我を撃うつこと神鬼(しんき )の如くしたまへ
君察我無辜  君 我が無辜むこを察しりたまはば
為我請冥理  我が為に冥理(めいり) を請こひたまへ
冥理遂無決  冥理 遂つひに決すること無くんば
自茲長已矣  茲これより長とこしへに已やみなん



長いんで、後半だけを載せてありますが・・・私には、これだけじゃあ、意味、よくわからん!!
ただ、こーんなに漢字知ってて、音としても詩になってるカンジですっげ~・・・と思うだけです。

そこで、訳は、↓

滋実よ、
君は、たしか、生前、こんなことを言っていたね。・・・「道真よ、君には大変な恩義をこうむっている。死んでも生きても、生死を越えて、その恩義に報いたい」と。

君の魂に、もし精霊が宿りたもうものならば、昔の友を忘れたもうな。
私はいつも正常な意識を持って、所信をぐらつかせたくないのだ。

どうか私のささえとなってくれ。

だから君、もし私に、凶慝(きょうとく)、つまり道理にはずれた行いがあったと見抜くならば、神鬼が悪霊を破砕するように、私を打ち砕いてくれたまえ。

しかし、君、もしも私が、無辜(むこ)の罪で、苦しんでいると見通すならば、どうか私のために、天道に冥理(めいり)を請うてくれ。

その天道の冥理(めいり)をもってしても、裁決することができないのなら、私は何を言おう。

永久に沈黙しよう。
(岡野玲子「陰陽師」の中からの訳)



なぜ、こんな詩を作った人が、恨みのあまりに、怨霊になっちゃったんでしょうかね。

ものの道理を理解していて、非常に聡明で、実直な詩人としか思えません!!

ああ、だからこそ、救われないところまで、自分を追い込んでしまったんでしょうかね??



北野天満宮は、はじめは、菅原道真の御霊を鎮めるために建てられた神社で、「御霊」「雷神」として祀られてたようです。
それから、学問の神様として有名になっていったようです。

長きに渡る怨霊から、いつしか、恨みや執念も消え去り、浄化し・・・神様になった。。。
ほんとうの、学問の神様に。

大怨霊と神は、まさに、紙一重かもしれない。

彼ほどの、強い念と力があれば(なんせ、雷を起こせるくらいですからね~)、人々を守る神になってるのも、不思議はないような気もしてきます。

人、怨霊、そして神へ。 怨霊は今、神となって存在。。。

あまりにも、人間的・・・というか~、いとおしい人なのかもしれません。

そうそう、菅原道真が、愛した花は、白菊の花だったそうです。
sirakiku.jpg

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