もちろん、日本のビジネスシーンではめずらしくもないでしょうが、こんなに上手な人は、LAではめずらしい。
「僕は、イギリス人とドイツ人が入ってるかな。あ、そうだ、たしか、ルーマニア系だったか、スェーデンだったかも入ってるんだ。」
「アイリッシュ系ではなく、イギリスですか?」
「うん、アイリッシュは入ってないらしいんだ。」
一見、白人と言っても、さまざまです。
イタリア系、ドイツ系、アイリッシュ系などなど。また、現在では、多くの混血になってる人も多い。。
ご存知のように、アメリカは、ネイティブインディアンたちが、それぞれのコロニーを作って生活していたところに、イギリス人が渡ってきて、さらに、続々と、ヨーロッパ各国からやってきた人たちによって、作られた国です。
結局、ネイティブインディアンは迫害され、一番勢力が強かったイギリス人を中心に作られたんで、言語も英語になったってわけでした。
さすが、移民の国、アメリカ!
でも、日本もまた同様、移民によって作られた国・・・ってご存知でしたか?
それは・・はるか遡ること、縄文時代。
縄文人が住んでいる土地、日本に、続々と他民族が渡ってきました。
イスラエル王国が滅亡したあと、「失われた10支族」が日本にたどり着き、移住し建国した・・・という話は、以前のブログ記事にも記したことがあります。↓
ユダヤの謎と日本の起源(その1)
http://silvermoon2010.blog27.fc2.com/blog-entry-161.html
続:ユダヤの謎と日本の起源(その2)
http://silvermoon2010.blog27.fc2.com/blog-entry-162.html
続々:ユダヤの謎と日本の起源(その3)
http://silvermoon2010.blog27.fc2.com/blog-entry-163.html
もちろん、この10支族だけじゃなく、それ以外の人々も、後に多く入ってきたと思われます。
コロンブスがアメリカ発見以来、続々と新天地を求めて、人々がやってきたように、日本でも同じことが起こってたんですよね~。
さぞかし、土着の縄文人はびっくりしたことでしょう。
そして、新しくやってきた人々は、縄文人を制圧し、高い文化や技術を伝え、弥生人になった。
弥生時代は、農耕がはじまり、富が蓄えられ、国家が統一に向かっていった時代でした。
・・・・・・・・・・・・
そうそう、DNA分析で日本人のルーツを探ると、こんなことがわかるそうです。
(近年では、DNA分析ができますからね~)
世界でも珍しい3グループ共存地域・日本
人類の長期スパンの追跡にはY染色体分析が適している。
これにより分類できるヒトの系統は大きく分けてAからRの18系統。
さらにこれらは以下の5つのグループに分けられる。
A:アフリカに固有
B:アフリカに固有
C:出アフリカの第1グループ
D,E:出アフリカの第2グループ
F~R系統:出アフリカの第3グループ
日本列島にはこのうちC,D,N,O系統、つまり出アフリカ3グループすべてが認められる。
世界の他地域では2グループしか認められないのが普通で、3グループすべてが残っているのは珍しい。
世界でも珍しいくらい、人種が入りこんでるってことのようですよ。
アメリカだと、肌の色、髪や目の色も違う人々が雑多なんで、いかにも「人種のるつぼ」って感じるんだけど、現代の日本は、ほとんどが外見は同じ。
なので、つい同一民族のカンジがしてしまうんだけど・・・実際は、アメリカ同様に多くの異国人の国だったってわけです。
これは、言語学上をみても、納得できる気がします。
日本語の言語体系の起源については、言語学上の論点のひとつとなっている。
つまり、いまだによくわかってない!
アルタイ語族説、朝鮮語同系説、高句麗語同系説、百済語起源説、オーストロネシア語族説、ドラヴィダ語族説、クレオールタミル語説、エジプト起源説、ヘブライ語同系論、レプチャ語との関連説などなど。
それぞれの言語については、私は調べたわけじゃないんですが、まあ、人種のるつぼであるならば、当然かな・・と思える結果かも・・ですね。
おそらく、この当時は、どんどん人口が増え、ものすごーーい異国人であふれかえったことでしょう。
そして、彼らがもたらしたものは、高度な文化と技術!
それによって、急激に変わっていったわけです。
ということは、
私たちが、今まで日本古来のものと思っていたものですら、意外に外部からもたらされたものだったんじゃないか、と考えても不思議じゃないですね!
たとえば、神道。
いかにも日本古来のもの、これぞ、神国・日本と思ってた人も多いかも。
神道の特徴として
●教祖をもたない
●教義や戒律をもたない
●偶像崇拝をしない
●天皇家と深いかかわりがある
これは、他の宗教とは、まったく異なるものです。
あらら~、神道って特異なものだし、いったいどこから来たんだ?
日本神道のルーツは古代イスラエル宗教
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/091shintou.htm
神道について、こんな記述もあります↓
「神道は弥生文化をもたらした渡来人とともに大陸から渡来してきた。」というのが考古学者の大方の見解です。
縄文時代の神話も入り込んでいますが発生期は弥生時代でした。
この宗教の特徴は無教祖・無教義・無戒律・無偶像。天皇家とともに国民と深くかかわっています。
祭儀は非常に伝統的で行事重視であり、それを保つことに強い意義と目的をもっています。
このように高度に整えられた宗教が、この列島で自然発生的に発生し育ったとは考えられません。
文明の発祥地であるメソポタミヤ、エジプトかイスラエルからもたらされたと思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、神道が古代イスラエルの宗教、ユダヤ教だとすると、
ユダヤ教の正典は、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)です。
旧約聖書(きゅうやくせいしょ)とは、
ユダヤ教およびキリスト教の正典である。また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。
『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、さらに古いものは、アラム語で記載されている。
アラム語というのが、出てきたんで、ついでに、ちょっと調べてみると、↓
アラム語というのは、キリストが使っていたとされる言語で、シリアのダマスカスから50キロ離れた小さな村で、今でも細々と使われてる。
キリストが話していた「アラム語」、21世紀に直面する消滅の危機
ようするに~、
原点が、すべて旧約聖書にあるならば、
キリスト教もユダヤ教も神道もイスラム教も、原点は一緒じゃないか~!!
なんだか、宗教戦争なんかやってる人々が、ばかばかしくなってくるなあ。
同じ会社内で、派閥争いしてるのと同じようなものか~。
やれやれ。
さて、長~い縄文時代を経て、弥生、飛鳥、奈良へと、時代は移り変わっていきます。
当時の日本は、遣隋使、遣唐使を送り、どんどん外国から進んだ文化や技術を吸収しようと必死でしたから。
そこで、もちろん、海外からやってきた、高い技術や教養を身につけた外国人も、非常に優遇したわけです。
そこに登場するのが、秦氏
秦一族は、秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝というような話もあるものの、ルーツはよくわかってない。
まあ、一般的にはこのように言われているんですが、秦一族こそが、日本の朝廷に、大きく貢献した人だったわけです。
そして、なんと、神道信仰の土台を築きあげた一族でもあるのです。
そう、神道は、帰化人である、秦氏によって基盤が作られた。
日本人ではないのだ!
神社の建立にも力を入れて、松尾神社系、稲荷神社系、平野神社系は秦氏直系である他、白山神社系は秦支族の三神氏が、賀茂神社系は秦支族の賀茂氏、八幡宮系は秦支族の辛島氏が創建している。
八幡は「やはた」とも読むが、これは「多くの秦氏がいる」という意味である。
これじゃあ、秦氏の手にかかってない神社を探すほうが難しいくらいだ。
もちろん、神社だけでなく、土木・建築、灌漑工事養蚕や機織り、酒造も手掛け、楽器や紙といったさまざまな文化・芸術に関する教養も日本にもたらし、
さらに政治・経済においても秦氏の影響力は計り知れなかったようです。
事実、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝を筆頭に、桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの協力を得て、平安京の遷都を実現させてます。
朝廷において強い影響力を持っていた有力者であり、平安京の造営にあたっては、そのプロジェクトを推進のために、平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上してるんですよね~。
とにかく、莫大な私財と莫大な知識、技術を持ってた一族なんですよ~。
この一族なくしては、日本の文化の発展は、ありえなかった。
いったい、秦氏って何者?
ここで、秦一族の謎。
●日本に渡来する以前は、大陸においても長い間、寄留者・異邦人という立場で大陸を移動し続けながら、多くの文化的貢献を残してきたそうなのだが、そこでも、彼らは、自らのアイデンテティーを明かしてない。
数万人規模の集団が大陸から移住してきたにもかかわらず、故郷が明らかでないのはおかしな話ですよね。
少なくとも、本来ならばその旅の経路や人口の変動、文献による記録などから、どこから到来した民族であるかがわかるはずなのに~。
●そして、その財力
古代の日本社会では、経済の基礎インフラがほとんど構築されてなかっただろうし、物資そのものが不足していたはずなんで、まず、短期間で蓄財することは到底不可能。
よって、秦氏は大陸で財を成した有力者であり、その富と技術、大勢の民を伴って渡来してきたことは明らか。
なんのために、アイデンティテーィを謎にしたのか?
なぜ、日本に渡ってきたのか?
なぜ、日本に大きく貢献したのか?
なぜ、それほどの富と知恵、技術を持ちながら、歴史舞台の裏方に回ったのか?
東アジア史においても、秦氏の存在については多くの謎に包まれたままなんです。
そして、なぜか、教科書にもほとんど触れられてない。
歴史の教科書には「大陸から新しい文化を携えて日本の文化に貢献した渡来人」「秦河勝」
そーんな程度の記述しかなかったような気がします。
私が、当時の帰化人、秦氏などについて、始めに興味を持ったのは、山岸良子さんのコミック日出処の天子 なんですよね~。
これが、厩戸の王子(後の聖徳太子)で、大陸からの帰化人たちが、厩戸の王子のとりまきとして登場してくる。
飛鳥時代から、かなり朝廷に重く用いられてたってことですね。
日本書記等の古文書には、秦氏が「百済より帰化けり」と書かれているため、
単純に、秦氏は百済出身だったと思い込んでたけど、「百済を通ってやってきた」とも言えるわけですよねえ。
西方からやってきて、長年、唐にいて百済にもいて、それから、日本にやってきた・・・ということは、まったく思いつかなかった。。。
あえて、そのように、曖昧に誤解させて起きたかったのかもしれませんが・・・。
それにしても、なぜ、これだけ日本文化に貢献した中心的な存在である秦氏を、教科書にほとんど載せないのか?
曖昧にしちゃったのか?
秦氏が、日本文化に貢献した中心的な存在として公認してしまうと、日本人のルーツは、百済からやってきた帰化人であるとされてしまうから?
それに、秦氏の出自をたどっていくことは、少なくとも日本人のルーツそのものについて考察することになってしまいそうだからでしょうね。
従来の定説に、大きく反する結論に発展しちゃうから。
従来の定説とは、
これは、あくまでも、日本書記や古事記に書かれていることを鵜呑みにした場合ですが、
日本という国家は天皇を現人神とする神国であり、およそ日本人は古代から連綿と続く単一民族である・・・・という大前提があるんですね。
もしも、それを覆してしまえば、皇室の血統や出自についても言及することにもなりかねないでしょう。
だからこそ、これまで多くの歴史家は公に議論することを躊躇したわけだし、学校教育においては踏み込んだ記述ができなかったんでしょう。
それ故、古代日本における文化の礎を担った人々のほとんどが渡来人・・・というような論説は封印してしまって、
独自の文化を持つ日本列島に土着していた縄文人に、大陸から渡ってきた弥生人が長い年月を経て交じり合い、今日の日本人の原型が育まれた・・・・
とする考え方が、
私たちが歴史教育によって培われてきた日本人像として定着しちゃったんだと思います。
ところが、秦氏について、色々と調べれば調べるほど、答えは1つにまとまっていきます。
●秦氏の正体は、漢民族や、韓民族ではなく、南ユダ王国のユダ族である。
東へ新天地を求めて旅をする途中、中国や朝鮮に留まり、技術や文化を伝えながら、さまざまな土地で影響を受け、さらに洗練された技術を培ってきた民族だったんだ。
秦の滅亡を機に、迫害を避けるため、朝鮮半島に移住し、それが「魏志」において「辰韓人」と記載されている。
日本書記には、弓月君(ユヅキノキミ)が三世紀末、朝鮮半島より渡来したことが秦氏の基であると記されています。
当時、中央アジアには、弓月部族が元来居住していたと考えられる弓月国が存在しました。
そこはイスラエルの祖先の地からも近く、キリスト教の布教も熱心に行われた結果、景教の一大拠点ともなり、シルクロードの通過点として最終的に日本の奈良まで繋がるんですよね。
もちろん、日本の各地には、秦氏よりも前に渡来した古代イスラエルの民が存在していて、各地で高地性集落等を構成して、生活していたと思われます。
私も以前のブログに、剣山の話などを書いてたと思いますが。
ところが、秦氏の渡来は、それまでの規模とはまったく違う、大規模な移民の波になったはずで、日本の古代史の中、歴史的転換点となったはずです。
なんせ、秦氏系だけでも数万から数十万人の規模
そして縄文時代末期では10万人に満たないと推定される日本列島の人口が、弥生時代の途中から急激に増加することとなり、
一説では数世紀に渡る大陸からの渡来者の数が最終的には100万人を優に超えたはず。
人口学上でも、渡来者の数を100万から150万人程度に推定しなければ数字の辻褄が合わないほどで、
まさか、ベビーブームで人口がいっきに増えた・・・なーんてことは、ありえませんからね(笑)
●その高貴な文化と芸術的な感性、そして特異な宗教的背景を振り返る限り、秦氏は元来、高貴な王族級の民族の出であることに違いない。
●秦氏が景教の信望者だった。
弓月君の故郷が、この中央アジア近辺にあった可能性は極めて高い。
つまり、秦氏のルーツは中央アジア方面まで遡ることがわかります。
そして景教の信望者として全国各地に神社を建立し、さらにエルサレムの都に倣って平安京の造営に大きく貢献したことからしても、秦氏は中央アジアからさらに西に存在するユダヤ王国につながります。
さて、ここで言う、景教とは?
キリスト教のことですよ。もっと正確に言うと、ネストリウス派
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。アッシリア東方教会が継承した
3世紀から7世紀にかけて西アジアを支配したササン朝ペルシャ帝国により育まれてきた景教。
431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。
唐代の中国においては景教と呼ばれるようになった。
キリスト教とひとことで言っても、山ほど○○派というのがあり、ときどきの権力者によって都合が悪いものは、異端とされて迫害されたものもいっぱいあります。
嵯峨野のある山城国葛野郡は秦氏の本拠地の一つで、そこには秦河勝が聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、建立された、秦氏の氏寺の広隆寺があります。
京都最古の寺として603年に建立された広隆寺、元来、蜂岡寺(はちおかでら)と呼ばれていました。
その後、何回か移転を繰り返して、平安初期、現在の地に落ち着き、「太秦寺」とも呼ばれるようになったのです。
ちょっとめんどくさいですけど・・広隆寺→蜂岡寺→太秦寺と名前が変わったんですね~。
これにも色々と理由があったようなんですが、そこは、長くなりそうなんで・・省略します。
広隆寺が建立された頃と時を同じく、唐では、ネストリウス派のキリスト教、景教の布教が活発になってきて、
ついに、唐は、景教を638年に公認。
あらら、唐で公認される前に、日本で景教のお寺が建築されちゃってたんですね。
唐という国は、当時は偉大な文化を持つ大国であり、皇帝の即位式となれば、世界各国から要人が集まったそうです。
さぞかし、目の色肌の色の違う人種、言葉も宗教も違う人たちであふれかえる国際都市だったんでしょうね。
そこには、ササン朝ペルシャ帝国の人々、景教を信仰する人々もいたはずですから。
遣唐使として渡った、空海は、景教もしっかり学んだそうですよ。
ところで、なぜ、唐で、公認される前に、日本に景教の寺が建てられたのか?
日本は、諸外国の影響を受けづらい島国だし、それに、まだ宗教的対立となるような障害が、その当時は、さほどなかったんでしょう。
いい時代
なによりも、外国の文化を取り入れようとする気風の方が強かったんじゃないでしょうかね。
それにしても驚きです
学校では、キリスト教伝来は、1549年、フランシスコ・ザビエルって習ってましたから・・・。
(もっとも、このとき入ってきたキリスト教とネストリウス派は、一緒にすることは出来ませんが~。ネストリウス派は原始キリスト教と捉えたほうがわかりやすいかな。)
あ、そうそう、お寺というと、まるで仏教をイメージすると思うんですが、寺=仏教ってことじゃないですからね。
私は、アメリカに住んで初めて、ユダヤ系の人々が行く教会は、テンプル(お寺)って呼ばれてることを知りました。
チャーチじゃないんですよね。テンプル。今でも、彼らはテンプルって呼んでます。
ちなみに、はちおか、うずまさ、・・・・という言葉は、ヘブライ語の言葉なんだそうです。
それを、日本の漢字に当てはめた呼び名だそうです。
どういう意味かという話は、ここでは省略しますね。また、長くなりそうだし(笑)
この当時、多くの神社に、キリスト教のお寺ってのは、ほんと、びっくりです
もっとも、キリスト教と言っても、私たちが知ってるような、白人のイエスの像を拝むようなキリスト教とは、違うんですけどね。
さて、もう一度まとめて補足すると、
秦氏のルーツは、古代ユダヤ民族であり、彼らは、国を失った後、世界各地に離散し、その卓越した大陸文化とイスラエルの遺産を携えながら長い年月を経て大陸を横断し、朝鮮半島を経由して日本へと辿り着いた。
そして生粋の王系、ユダ族の王族の末裔、ダビデ王の末裔だった可能性が高い。
その秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統が秦氏らの介入により皇室に継承された。
さらに律法に基づいて神宝の管理を含む宗教統制は、レビ族の出自である阿刀氏系の古代ユダヤ人を中心に執り行なわれた。
注;阿刀氏というのは、物部氏と同祖伝承を有する神別(天神)の古代氏族。空海の母方にあたるのが、阿刀氏。
そう考えると、とっても自然にすっきりしてきます。
イスラエルってのは、こう考えていくと、実に、特異な文化を持つ民族なんですね。
そして、イスラエルという国は、
王国が滅亡後、散り散りになりながら、決して自国の文化、言語、宗教観を忘れることなく、世代を超えて自国民の生きざまを後世に伝承してきたんでしょう。
しかも痕跡を殆ど残さずに民族移動を続け、世界各地に土着してきた。
だからこそ、2,600年も前に国家が滅亡しても、ヘブライ語は死語となるどころか、聖書を読むために不可欠な古代ヘブライ語として今日まで存続し続け、
1948年にイスラエル国家が再建された際には、国語としてヘブライ語が復活を遂げたのです。
まれにみる、特異な国ですね。
そういえば、イエス・キリストはユダヤに生まれた、ユダヤ青年だったけだし、イエスの教えを拒絶したユダヤ人(パリサイ派ユダヤ人)はイエスを迫害し、結果的に、イエスは公開処刑されたし、
イエスの12人の弟子は全てユダヤ人だったし~。
その後、ユダヤ人は世界中に散らばり苦難の道、多くの迫害にもあってる。
彼らにとって、はるかかなた、東の果てにある国は、シルクロードの終着点であり、彼らの夢にまで見た地、それが、日本だった。
まさしく、日出処の国だったんですね~。
世界は、ユダヤに始まり、日本で帰結しているのかもしれない。
なんだか、日月神示にもあった、日本が世界の雛形となる、日本が中心という意味がわかりかけてきた気がします。
多くの宗教もまた、1つのものから始まり、最終的には1つになり、多くの民族も1つなのかもしれない。
理想の姿は、他国民が1つになり、優れた文化、芸術の集大成を実現させた国、それが日本。
自然を大事にし、調和と繊細な美を大切にする日本文化のルーツ、それが、秦氏にもたらされた。
こんなふうに見ていくと、つくづく
もう、こういった事実を隠す時ではないと思いますね。
真実に目も向けて、さらに検証すれば、もっともっと、新たな発見もできるでしょう。
それに、なにより、日本文化のルーツが秦氏にあるということは、神の選民の血が日本人のうちに息吹いていることを意味し、それは日本人の誇りとも思えるんですよね~。
注:選民思想とは、神との契約を交わした人々の思想。神の意思をついで、苦難を乗り越えて理想を実現させる。
決して、ナチスのような、アーリア人が一番すぐれてるというような選民思想ではないんで、おまちがえなく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考までに、こんなのがあったんで、アップしておきます。
【日本歴史ミステリー】青森にキリストの墓!?ダ・ヴィンチ・コードの真実!!
●バハラの言い伝え
バハラは、アラビア半島の国オマーンにある。
それによれば、10部族は囚われの身となっていたアッシリア帝国から逃れ、東の方へさまよい出た。
そして長年アジア大陸を放浪し、最後に「中国のかなたの神秘な国」に定着したという。
その言い伝えを頼りに、アイデルバーグ氏は日本を目指した。
●キルギスタンの言い伝え
昔ふたりの兄弟がいて、一人は山の方へ向かってキルギス人の祖先となり、もう一人は海の方へ向かって日本人となった。
またキルギス語には、日本語と共通する単語が数千もあるのだという。
以上は、『日本の中のユダヤ文化』という本で紹介されている。