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ビクトリア朝時代「繁栄する国」とは

イギリス好きはとくに、ビクトリア朝時代のロンドンに憧れる人が多いと聞く。

ビクトリア朝時代というのは、ビクトリア女王が在位してた時代(Victoria Era 1837年 から1901.年まで)

この時代はイギリス帝国の絶頂期

政治・経済・社会面で繁栄し、しかも圧倒的な海軍力を持って、多くの植民地や自治領を所有してたことでも有名だね~。

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大邸宅の、こんな部屋でくつろぎ・・

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侍女にかしずかれ、
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この当時の貴婦人たちの間では、フランス人のメイドを持つことがステータスだったとか(笑)


ビクトリア朝時代というと、つい、こんな上流階級の暮らしをイメージしがち。


ところが、当時のイギリスは、凄まじい階級社会

家の使用人たちの中にも階級があって、執事侍女は使用人の中では上の位の人たち。

下っ端の使用人ともなると、なるべく主人には姿を見せずに働くことが義務付けられていたそうだ。

使用人たちに与えられた寝室も作業場も地下が多く、1日中日の当たらない場所で働いて寝るだけの生活だったという。
Franck Antoine Bail Two Milkmaids1906

しかも原則休みなし、12時間~16時間もの労働は当たり前。


奥様の風呂タイムなんてことになれば、水汲み専用の使用人は、木の桶に水を入れて何往復もするわけで・・しかも3階のお部屋まで・・な~んてことになったら、たまったもんじゃない!

風呂だけじゃなく、トイレだってオマルみたいなもので用を足して使用人がその始末をするわけだ。


それ、どこに捨ててくるんよ?

19世紀後半に下水システムが出来上がるまでは、穴掘ったところに溜めておいて川に流していたとか。

ロンドンの街中の住人たちは、そのままテームズ川に放り込んでたとか。


そりゃ、テームズ川の汚染はひどくなるわけだ!


おまけに当時の家には煙突があり、さらに産業革命で工場も増えて煙突がさらに増え、1日中もくもくと煙突から煙は出て・・

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霧のロンドン・・な~んて美しげな言葉があるけど・・あれって、実はスモッグだったんだって(笑)

川は汚染され臭いにおいを放ち、街はスモッグで覆われていたのがロンドン。



一部の上流階級を除く、庶民の生活はひどいものだったという。

とくにホームレスの子供たちが溢れかえっていたそうだ。
なぜなら、子供は親の稼ぎ手として、どこの家でも多産だったらしい。 小さい頃から働かせて親は稼ぎをピンハネするのが当たり前。(←悪いこととは誰も思ってない時代)


そうなると、稼ぎの悪い子は捨てられたり追い出されたり・・といらなくなった子供も増えてくるというわけで、

そんな子供たちは餓死するか泥棒になるか・・・。


子供に一番多い仕事は「煙突掃除」だったそうだ。

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体が小さい方が、どんな煙突にも入れるからね。

驚くべきことに、なんと4歳から働いたという。

しかも、命がけ

足を滑らせて落下したり、掃除中に暖炉の火を起こされて燻されたまま窒息死しちゃったり焼死しちゃったり・・と

4歳だよ!!

もちろん、煙突掃除の子供が死んだところで問題視されるわけもない!


Chim Chim Cher-eeな~んて、古い煙突掃除の歌があったのを思い出したけど、なんだか、悲しい響きに聴こえてくる。



まるで、アメリカのゴスペルを彷彿とさせるような・・。




煙突掃除だけじゃなく・・ビンボー人の過酷な仕事は他にも色々あったらしい。
   ↓
10 of the Worst Jobs in the Victorian Era

この中のいくつか紹介すると・・

LEECH COLLECTOR(リーチコレクター)
川や沼で蛭を取って薬局に売る仕事・・・主に女性の仕事だったらしく、自分の手足に蛭を吸い付かせて獲るのだけど、汚い水と蛭のせいで感染症で死ぬ人が多かった。

PURE FINDER(ピュアファインダー)
名前はキレイだけど(笑)、街の通り中を歩きまわって犬糞集め。
当時は、皮製品の製造過程で犬糞が使われていたんだって。


TOSHER(トッシャー)
ロンドンの地下下水道に入って、大都市の廃水を振るいにかけて、流れてきた貴重品(コインだとか、銀のスプーンだとか)を拾い集めて売って生計をたてた。
時には大量の汚水に飲み込まれるわ、ネズミの群れもいるわ、汚染物質と病原菌の巣でもあって、命を落とす人も後をたたなかった。

MATCHSTICK MAKERS(マッチスティックメーカー)
マッチ棒作りのこと。 主に10代の女性が多かったとか。
マッチ棒の先に、白リン(毒性の強い化学物質)を浸して作る作業で、これを12~16時間ぶっつづけで食事しながらも働かされたせいで、有害物質が口から入り、アゴの骨が感染して、その結果みるも無残な顔面になってしまう人が多かったそうだ。

phossy jawという職業病



いずれも、超がつくほど汚い仕事で、事故死を免れたとしても毎日が感染症と隣りあわせ、健康で長生きは絶対ありえないような仕事ばかり。

大邸宅の下働きに雇われた人の方が、ずっ~とマシだったんだろうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この当時の日本はといえば・・江戸時代だ。

江戸の街とロンドンを比較してみよう。

結論から言っちゃうと、江戸庶民の生活レベルは明らかに上。

まず、汚物処理が完璧。 汚物は全部集めて農家へ運ばれる。 完璧なリサイクルなんで、川に投げ捨てなんてしない。

とくに江戸の街はベニスのような「水の都」。 
船宿というのがあって、タクシー代わりに舟を手配してくれるところがいっぱいあったそうだ。 当然、物資の運搬にも利用されていた。

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江戸幕府が開かれたときから、治水工事、道路の完備、城下の商業発達には力を注いできた賜物なのだ。
なぜか日本の治水技術の水準は非常に高度だ。

しかも、どこの家でも、自分の家の外の通りを掃き清めて打ち水までする習慣があったから・・道路だってキレイなのだ。

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汚物を通りに投げ捨てるなんて・・日本人にとってはとんでもないこった!



以前のブログにもアップしたけど・・江戸の女性の職業だってかなりあったわけで、他国と比較して男尊女卑なんてものはない。
   ↓
男尊女卑というジェンダー史


貧しい子供たちは川で蜆やウナギを取って売り歩いたという。(川の水もキレイだったからね~)

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https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&products_id=1782

父ちゃんが病気で寝たきりなんでオイラが蜆売りしてるんだ~!な~んて言えば、親孝行の良い子じゃ!と頭を撫ぜられ、大人がこぞって買ってくれたという。。。


貧しいロンドンの子供たちとは、そこからして「貧しい」という意味がぜんぜん違う。


「お天道様と米の飯はついてまわる」と言われてたほど、貧しいながらもなんとかなっちゃうのが江戸。


この時代には、ロンドンにも江戸にも、「児童法」なんてものはなかった時代だけど、法が無くても江戸庶民たちは「子供は国の宝」と言い、親だけでなく地域共同体としても面倒を見ていたところがある。

子供に危険な仕事なんてさせるわけがないのだ。



また、同様に「厳しい身分制度」はあったものの・・日本の場合は、かなり「融通が利く」のだ。

天璋院篤姫さんだって・・遠縁の分家?とか言われてるけど、かなり身分は低いお方。
薩摩藩主島津斉彬の娘で、近衛家の養女という「名目」を作って、将軍の正室になっちゃった人。

いちおう、名目さえ整えておけば、ま、いいか~ってのが日本。


これまた、「厳しい身分制度」の意味が、イギリスとはぜーんぜん違う!
イギリス社会の階級制度とはぜーんぜん中身が違う。

イギリスの上流階級の人たちは使用人とは原則として口を聞かない。

執事や侍女であっても、完全に主従の関係を保ち、命令は絶対だし常に敬語を使って話すのは当たり前。



ところが、アメリカの場合は、またちょっと違う。

13339833-イギリス対アメリカ

当時のアメリカの大富豪ともなれば、やはり使用人がいっぱいいて、奥様お嬢様には侍女がついてたそうだけど・・

主従の関係ではあっても、仲良くなってくると、友達のように相談しあったり軽口を叩いたりもしてたそうだ。

そこがまた、イギリス貴族からみれば、非常に「みっともないこと」「品がないこと」とされたらしい。

もっとも、当時のアメリカの上流階級というのは、鉱山で一発当てて大金持ちになったような人が多かったわけだからね。
元をただせば、自分だって同じ釜の飯を食ってきたという人も多かったせいだろう。


とにかくイギリスの階級意識はかなり凄いのだ(笑)

これは1980年代後半に、イギリスの庭園技術を学ぶために、イギリス留学した人から聞いた話。

まず、師匠となる庭園師の家にホームステイさせてもらうことになり、初日に庭園師に連れられてお屋敷にご挨拶に伺ったそうだ。

そのお屋敷というのが、代々庭園師が雇われていたご主人にあたる家(元貴族の家)
奥様が出てきたので、庭園師と共に挨拶をすると・・・ガン無視!されたそうだ。

なんなんだ!! なんて失礼なヤツ!と思ったそうだが(笑)

日本からはるばるやってこようがどうしようが、しょせん、自分とこの使用人の家に厄介になるヤツだったら使用人と同じ身分の者。
身分が違うんだから、上のものがまともに挨拶を返すわけがないよね!

それがイギリス流の階級制度の常識





さて、ここで話をもう一度、ビクトリア王朝時代に戻そう。

あるとき、ビクトリアの夫、プリンス・アルバートは、ロンドンの下町で多くの惨めな子供たちをみかけて、ビクトリアに言ったそうだ。

この人
 ↓
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https://www.lakewanaka.co.nz/explore/the-prince-albert/

「きみはもっと庶民の暮らしを気に掛けるべきだよ。 4歳か5歳くらいの子供が物売りをしているんだよ」

ところが、ビクトリアはこのアルバートの発言にムッとしたまま。 アルバートは今度は首相のメルバーン卿に訴えたのだが、やっぱり無視されたままだったという。


世界に誇る大英帝国には「貧民救済」という観念すらなかったようだ。


一方江戸時代は、火災や地震による飢饉になれば、幕府や藩によって「お救い小屋」が建てられ、無料でお粥を配ったというし、豪商の中でも私財からお救い小屋を作った人もいたそうだ。

医療施設としては、小石川養生所なんてのも有名。 
貧しい人を救済するため無料で診察、入院もできたという。

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http://mamechishiki.aquaorbis.net/mamechishiki/0110-koishikawa-youjosyo/


つまり・・・当時のイギリスでは、下層階級は人として扱われてなかったということだ。

そんなわけで、中産階級や下層階級の話や文化など、伝えられているものは非常に少ない。


ステレオタイプのイギリスといえば、紳士の国だとか、紅茶好きアフタヌーンティーなんて言葉ばかりだもんね(笑)

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紅茶が飲めたのは上流階級だけ!! それ以外の人の飲み物といえばビール🍺
しかも、安ビールは水を加えて味を胡麻化すために砂糖を少し混ぜてあったとか。


当時の庶民文化を示すものとしては、唯一、ディッケンズは下層階級を主人公にして弱者の視点から社会を風刺した作品を残したことでも有名な人ではあるけど・・

Charles John Huffam Dickens

下層民の子、オリバーツイストにしても、実は金持ち紳士のゆかりの子だったとわかって、最後はリッチな家の子になるって話だったし・・・

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また、バーネット小公女セーラだって、最後はまた大金持ちに戻っちゃう話だったからなあ。

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子供が主役でハッピーエンディングの話にするなら、当時のイギリスで、貧しいままでハッピーエンディングというのは、あまりにも無理があったのかもしれない。 



ビクトリア朝時代というものが、おわかり頂けただろうか?


江戸もロンドンも百万都市と言われていたものの・・・

産業革命を成し遂げて最先端をゆく世界一裕福な国家といわれ、バッキンガム宮殿、ビックベン、ウエストミンスター寺院、石畳にガス灯の街並みでも・・・街も川も汚染され臭いにおいが漂い、通りには餓死者の死体も転がっていたというロンドン。 特に子供の死亡率は大人の数倍だったという。

産業革命で工場は多くても、文化はこれといったものがまるでなかった国。

上流階級でさえ、フランスやイタリアの文化をそのまま持ってくるしかなかった国。


事実、ビクトリア朝時代に英国の伝統料理はほぼ破壊されてしまったと言われている。

庶民は、長時間労働で働かされて搾取されてたせいで、料理を作るヒマもなければ娯楽も文化も生み出すヒマさえなかったからだ。

なるほどね~、だからイギリス料理はマズイ!って言われるようになったんだろうなあ(笑)



それに比べて、江戸がどんだけ庶民に優しい街だったことか。


つくづく思うのだけど・・国民全体という視点において言わせてもらうなら、日本こそが世界一だったような気がしてならないのだ。


児童法すらなかった時代なのに、人々の道徳観の中で子供は大切に扱われてきたことをみても、ビクトリア王朝の人々より、ずーーと心も豊かだったのではないだろうか?

大人は子供を大切にし、子供も自主的に親孝行をしようとする。 しかも笑顔で。


心の豊かさは、当然、庶民文化も華開き、多くの料理も考案されるようになっていったのもこの時代。

天ぷらそば、ウナギのかば焼き、鳥鍋、軍鶏鍋など考案されたのも江戸庶民の文化の中からだ。



ビクトリア女王に聞いてみたい。

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良い国とはどんな国だと思いますか?と。

帝王学・易姓革命そして古代中国

これは日本に住んでいた頃、友人から聞いた話。

「私、6歳ごろから祖父に帝王学を授けられてたんだ」・・と彼女は笑いながら言った。

て、帝王学~?

「それって、具体的にどうゆう教育をされてたの?」(いったい彼女のおうちって、どんな家系の家だったんだろう?)

「じいちゃんが、あちこちの店に食べ歩きに連れていってくれるの。
それこそ、近所のラーメン屋から定食屋、デパートの食堂、ときには高級フレンチや料亭まで。」

「6歳ごろから? そりゃすごい!」
(ん?それって帝王学つーより、食べ歩き?)


「でね、必ず聞かれるのが、美味しいか不味いか? 次にここの料金は○○円するんだけど、どう思う?高いか安いか? 
それを子供の感覚で適当に答えるとね、なんでそう思う? ちゃんと考えて理由を答えなさい、って言われる・・。

じいちゃん、そんなことわかんないよ~。 なんで私、そんなこと考えて答えなきゃならないの~?って聞くとね、

『これはフィールドワークのお勉強なんだよ。 しかも帝王学を授けてるんだぞ。』って言われたのよ。」



ふぃーるど・・? てーおーがく?・・・って言われても、意味わからんかったらしい。(そりゃあ、6歳じゃね~。)
でも、彼女は、なんかその響きがカッコいいように思えて、じいちゃんにいつも付き合って食べ歩きをしたという。



それから数年経ち、彼女がティーンエイジャーになった頃には祖父はすでに他界。

あるとき、ご両親とおじいちゃんの思い出話をしたそうだ。

子供の頃、いつもおじいちゃんとたくさんのお店に食べ歩きに言ったことを話すと、

「ああ、オマエのじいちゃんは食べ歩き大好きだったからな~。
うちは、パパもママも家業で忙しかったから、いつもじいちゃんがオマエの面倒を見てただろ?」


「じいちゃんは、食べ歩きするのは私の勉強だって言ってた。 それは、帝王学だって、しょっちゅう言ってたよ」、と彼女が言うと、

「食べ歩きが帝王学だって~? あははは・・あのじいさんらしいよな~。」と両親は大爆笑。


その彼女もすでに30代後半に差し掛かった。

「あのとき、じいちゃんがさまざまなお店に連れて行ってくれたことが、今、ものすごく色々な面で役立ってる。
最初はただ、美味しいか不味いかだけだったのに、料金を示されれば、なんで、この値段なんだろう?って子供ながらにお金の価値考えるようになったしね・・

なぜ美味しくて安いのにお客さんがいないんだろうとか? 
なんで汚らしいお店なのにお客さんがいっぱいなんだろうとか?

そのうち、子供ながらに、お店の従業員やら雰囲気、建物や、色々なことにまで目を向けるようになってきたんだ。
そうゆうのをじいちゃんと一緒に話すのがすごく楽しかったし、それがまた、勉強になってたんだな~って思う。

まさに、あれはジョークでも誇張でもなく、帝王学だったと思う。」

彼女は20代で企業してベンチャービジネスの会社を持っている人だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・

私は、その話を聞いてから、帝王学というものの見方が変わった。


「帝王学」というのは、昔から皇帝、国王、戦国武将など、国を治めるために学ぶものって思ってた。

人々の性質を知り敵と味方を把握し、領土を知り、先を予測して、時、場所などを選ぶことで、物事を有利にスムーズに進める手法。 その目的は、統治して末永く繁栄させていくことにある。



言うまでもないことだけど、これは世襲の君主国の場合のお話。(共和制ではない)


『君主論(1532年に刊行されたマキャヴェリによる政治学の著作)によれば、
*これは西洋における元祖帝王学ともいわれている。


”世襲の君主ならば既に定められた政策を維持して不測の事態に対処するだけで統治は事足りる。”と書かれてるそうな。


なまじ共和制にするより、世襲制の君主国にしちゃった方がラクなのだ。

こうなりゃ、君主は平均的な能力さえ持って国民に愛されてれば、なんとか国はまわっちゃうってこと。

バカ殿でもたぶんOK? (これ懐かしいなあ・・)
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そういえば、260年続いた徳川政権だって、名君ばかりじゃなかったもんね~(笑)



帝王学を書いてる著書は、世界各国にあって、

インドの『実利論』は、古代インドの政治家カウティリヤによる帝王学の著作。

『禁秘抄』(きんぴしょう)は、第84代順徳天皇による有職故実の解説書・・・宮中の恒例行事の事次第だとか、改元などの国家的な行事の作法、宮中の宝物・施設や組織のあり方とか。(かなり現実的な内容)

また、それぞれの武将たちによるものもある。

武田信玄が残した『武田信繁家訓』・・99条にもわたるものだとか・・・。 ひええ。よっぽど書くこと好きだったんだねえ。
これはのちの甲州法度之次第の原型ともなったものだそうだ。

毛利元就が残したのは『三子教訓状(さんしきょうくんじょう)』・・・これまたすっごい長文、14条に渡るもので3メートルもあったとか。読む息子たちも大変だったろう。

こうゆうのすべてが、「帝王学」と呼べるものだろう。

帝王学とは、学と名はついているものの、明確な定義のあるひとつの学問てわけではない。
それぞれの家系や家によっても違うわけで、まあ、言ってみれば・・跡継ぎと決まった者に、幼少時から家督を継承するための特別教育のこと。



となると・・じいちゃんの食べ歩き教育だって、立派な「帝王学」に違いない。
実際、本人にとっては一般的な学校教育よりも、はるかに素晴らしい知的財産になったってことだし。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

各国の「帝王学」をみていくうちに、中国だけはちょっと異質、ということに気がついた。


有名どころで、古代中国の帝王学とされているものに、『韓非子』(かんぴし)がある。

春秋戦国時代の思想・社会の集大成というから、めっちゃ古い。

諸葛孔明さんが、幼帝の劉禅の教材として韓非子を献上したくらいだから、帝王学として重きを置かれていたものなのだろう。

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韓非子という人(人の名前でもある)は儒家の「荀子」(じゅんし)に学んだ人で、人の本性は悪であるとする「性悪説」を基本とする考え方になっている。
なので、法によって(つまり刑罰)人々を抑えるべきと主張されているとか。(←私は読んだことないけどね、解説書にはそう書かれていた)


そのせいか?(まさかね~)・・古代中国では、ここまでやるか?と思うほどの残虐行為が多いのは・・。
一族どころか、村中、町中焼き払って惨殺なんてことを日常的にやってのけたらしい。

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なぜ中国王朝では人類史に残る「大量死」が何度も起きたのか?

それでいて、易姓革命の思想を持つ国でもある。

ここが他の国々とは違うところ。


易姓革命とは、
   ↓  「世界史の窓」から引用

中国では王朝が交替することを易姓(えきせい)革命と言った。

易姓は王朝の支配者の姓がかわる(易る)こと、革命は天の神(天帝)の意志(命)がかわる(革る)ことを意味する。
殷(商)の紂王が悪徳の限りを尽くし、民を虐待したため、天の意志で周に交替したのがそのはじめであり、それ以後「革命」は中国では王朝の交替のことを意味していた。

現在では revolution の訳語として使われている。なお、易姓革命の形式には禅譲と放伐の二つがあるとされている。
世界史の窓より引用




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https://www.pinterest.ch/pin/307089268341378548/?lp=true

ちょっと補足説明をすると・・

●この世は天帝(天にいる神的存在)の意思によって作られている。
●王は天帝によって選ばれたものであり、もしも、王がを失った場合は人心が離れ国が乱れる。
となると・・天帝は現在の王を見限る。

●見限られた王は、禅譲(ぜんじょう)と言って、自ら退位を願いでるか、または他者によって討伐される。
この場合、討伐した者たちは反逆には当たらない(天帝の意思だから)

●新たなる王には、他姓の者がなる。 それによって、国名は変わる(国璽も変えること)



あれれ? 十二国記をお読みの方はお気づきでしょうが・・まさに、小野不由美さんの、あの小説は易姓革命の思想がベースにあるってわけですね~。

つまり、血統や身分を重んじるんじゃなくって、王としての資質、徳を重んじるという考え方。
儒家の孟子も、武力による王位簒奪さえ認めてたそうだ。(いやあ、ある意味、過激ですね~)

*世界史の窓の中の一文に、「現在では revolution の訳語として使われている」とあったけど、これは間違いかと思います。
revolution(革命)=易姓革命、ではないと思います。



さて、どのように思われますか?

「徳を失った王を交代させる」・・いかにも、最もなことのようにも聞こえるんだけど、徳を失ったかどうかって、いったいどうやって人々が判断できたんでしょうね? (十二国記の中では麒麟の存在で判断できたけど)

そもそも徳って? 何を持って徳と?


実際に王朝交代を正当化する理論にも使われてしまっていたらしい。

古代中国流大義名分ってヤツ。

北方から別部族が攻めてきて王を討つ。 
栄耀栄華を極め人民を苦しめ虐待し・・と王に対する罪状はいくらでも作り上げて、ちゃっかり新王に収まることができる。
(どんな善政を敷いたところで、反対派は必ずいるもんですからね)

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黄巾賊より多い黒山賊100万を率いた張燕(ちょうえん)


王を倒すのは、平民だろうがどこの馬の骨でもOK, (強大な武力さえあれば)
劉邦さん(前漢の初代皇帝)とか、朱元璋さん(明の始祖)なんか、平民出身だしね。


古代中国の歴史って、ずーーーーと、そんなんばかり。


そんなんばかりじゃ、古代中国の統治者たちは枕を高くして眠れなかったことだろう。
で、有能な占い師ブレーンを置いていた・・・という説がある。


そういえば、中国系占いサイトによくあるキャッチフレーズで、
「四柱推命(または算命学)は、中国4000年の歴史の中で帝王学として扱われてきた秘中の・・・」なーんてヤツね(笑)


ところが、占い師といっても当時は軍師が兼ねていることが多い。

たとえば、諸葛亮(孔明)さん  (またも登場)
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https://www.pinterest.de/pin/310396599302454505/?lp=true

奇門遁甲に通じ、八卦に基づく八陣図をモチーフにした陣形を組んだり、風向きを読んで戦いを勝利に導いたりしたそうだ。

これ、小説でも漫画でもる名シーンになってるとこ(笑)


で、紀元前500年頃には、兵法家の孫武が記した『孫子』兵法がすでに広まっていたそうだ。

『孫子』は戦争の勝敗は天運ではなく人為によるものと説く極めて現実的な兵法書。 占いには頼らず人事を尽すという考え方。

古代中国人はかなり現実的な考え方を好んだようで、孫子の兵法は広く受け入れられたそうだ。

たしかに、実践的じゃなきゃ明日攻めてくる敵には勝てないからね~。



それでも、現在に伝わる四柱推命や算命学が五行思想をベースにしているように、古代中国の時代から、五行思想は根強いものがあったようだ。

万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中の1つの徳を持っている、という考え方。

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『後漢書』とかいう書物の中では、漢朝は火の徳を持っているとされ、漢朝に代わる次の王朝は土の徳とも書かれてあったという。

イメージカラーも赤の次は黄色だ!となる。

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ああ、だから・・黄巾党だとか、

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黒山賊だとか、色にこだわったのかもしれない。 

自分たちの徳を象徴する色であり、新たに取って代わる色を誇示するために。

やはり、易姓革命の思想なんだな~。


一方、ヨーロッパの王朝の場合、もしも子供が短命で死に耐えてしまった場合は、他国から王族を招き入れて新しい血を入れたほどで、彼らは「王族の血」というものにこだわった。

また、前政権のすべてを無に帰して(または破壊して)完全に塗り替える・・・なんてことまではしない。


日本の場合は、ご存じのとおり「天皇」国家だ。 
中央集権化した大和時代あたりからずーーと今まで綿々と続いてきている。

天皇が徳を失ったとかボンクラだったとかって理由で、過去に滅ぼされたことは一度もない(笑)

豊臣政権とか徳川政権なんてあったけど・・結局、彼らは天皇によって認められた「総理大臣」のようなものであって、
実質的には武将が政治的実権は握っていたけれど、それを認めて任命するのは今も昔も天皇だった。


そう考えると、中国には歴史がないのは当然だろうなあ、って思う。
過去を潰して塗り替えてきたのだから。


もちろん中国にだって、何千年前の建造物も残っている。

こちらは、山西省にある南禅寺(782年に建築された最も古い仏教寺院)
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https://zh.wikipedia.org/wiki/File:%E6%97%A9%E6%99%A8%E7%9A%84%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E6%AE%BF.JPG

でも、それは形骸に過ぎない。 精神は断たれてしまってるから。

精神を絶つことこそが、易姓革命の考え方でもあったわけで、

歴史を伝えるよりも、新しく塗り替えていくことに重要性を置いていたのだろう。

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以前、どこかで「世界の老舗企業」というアンケート結果を見たことがある。
(創業100年とか200年とかの伝統を守りぬいてるという店や会社)

そのサイトが見つからなくなっちゃったので、こちらの老舗の一覧でも、ご覧ください。


現存している中で日本で一番古い(世界最古)なのは金剛組だそうだ。
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*578年、四天王寺(現在の大阪府)建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業。


このサイトだとデータ化されてないのでわかりにくいんだけど、

私が見たサイドでは、
とにかく日本が「老舗の数」においてダントツの1位だった。 たしか3000以上あったはず。

2位がドイツで1000と少しだったかな。

それ以下、やはりヨーロッパが多く、アメリカだって1600年代になれば登場してくる(それ以前はアメリカって国はなかったわけだもんね、それを思うとアメリカでさえ古いものを残してることがわかる。)


中国は・・・どこにあったのか覚えてないんだけど、すごい下の方で数十件しかなかったような。(韓国に至っては記憶にない)

あんな大国で人口も多いのに、人口の少ないチェコの方がずっと上位だったことを考えると、中国がいかに古きものを残さない国かということがわかる。


ひょっとしたら、文化大革命のときに、すべての古いものは壊されて、伝統を守る人々は殺されるか他国へ逃げ出してしまったのかもしれないが・・。



ダントツ1位の日本の老舗にインタビューすると、どこでも口を揃えて言うことがある。
「一番大切なのは、です。 信用・信頼を無くしてはたとえ一代限りであっても成り立ちません。」

また社内でのモットーは、
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という言葉が一番多かったそうだ。

社内においては上下心を一つにして共に働き、対外的には信用を最も大切とし誠を尽くす、ということらしい。


このデータを見るまで、日本がこんなにも古い伝統を持つ国だったとは、ここまでとは・・思ってもみなかった。


いったい何を持って「中国4000年の歴史」と言われるようになったのかは不明だけど(笑)

むしろ中国は面々と新しさのみを追求していこうとする国なのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若い頃の私は、伝統なんて大っ嫌い! ぶっ潰せ~!と思ってた。

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パンクファッションはキライだったけど、中身は完全無欠のパンク野郎だった。

それは、愚かにも「昔と同じことをただ黙々とし続けなければいけない」と思い混んでたからだ。 それが伝統だと。

「精神を受け継ぐ」ということを、ちっとも理解していなかったのだ。


帝王学もまた同様で、一番大切なことは「精神を受け継ぐこと」なのだと思う。

「帝王学」なんていうと、選民思想を彷彿とさせるよーな、ずいぶん大層なネーミングだけど・・

親から子へ、または先代から次世代へ伝える大切なメッセージであり教育、とも言い換えられそうだ。

誰でも一緒の学校教育とは違って、何を伝えるか、どのように伝えていくかは、そこはそれぞれというわけだ。

織田信長という人(その2)

<<前回からの続き>>

織田信長さんの、悪名高い部分をいくつか挙げてみる。


●比叡山の焼き討ち
<比叡山を焼き討ちし、学僧、女子供を含めた数千人を殺したことで鬼と言われるようになった出来事。>

歴史あるお寺を焼いちゃって、しかもそこにいるマジメ~なお坊さんや女子供までも殺しちゃうって、いったいどんな人なんよ!・・って、小学生の頃は思ったもんです。 まさに鬼のような怖い人だと(笑)

これが大人になると、決して神聖な場所=お寺ってわけじゃないかもな~ということも見えるようになる。


比叡山延暦寺は、平安時代、最澄により開かれた天台宗の山寺であって、たしかに昔は天台宗を学び修行する敬虔な人々の殿堂だったのだろう。

ところが、宗教というもの、時代とともに力を持つようになると、色々とんでもないことになるのが常。
1980年代に日本でも、ある宗教法人が起こした事件はいまだに生々しい記憶に残っている。


さて、比叡山がそこまでのものだったかどうかはわからないが・・

僧兵を置いて武装し、結構好き勝手放題にやってたらしいのは確からしい。
誰も手出しが出来なきゃ、そうなるわな。

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そういえば、その昔白河上皇だったかが・・

「私の思い通りにならないものが3つだけある。サイコロの目と鴨川の水と山法師だ」と言わしめた程、比叡山延暦寺を中心にした寺社勢力はアンタッチャブルで厄介なものだった。

宗教というものは一歩間違うと怖いものに変じてしまうのかもしれない。(←信長より、こっちの方がよっぽど怖いぞな。)


とくにこの時代、みんな迷信深かったし、天罰が当たると言われれば誰も手出しができなかったのだろう。


これは新平家物語の中にもあった話
    ↓
叡山の山法師たちが、自分たちに都合のよい要求を通すために、日吉山王の神輿(みこし)を担いで京の都をデモ行進し、皇居へ運び入れるってことをしてたらしい。

これを、強訴(ごうそ)と呼んだそうで、
この神輿(みこし)の前では、天皇すら、階を下りて地にひざまずき、礼拝しなければならなかったという、絶対的な象徴だったとか。

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たとえ、それに矢を射ても、矢は「神輿(みこし)に当たらず、すべて地に落ちてしまう」
「射る者があれば、たちどころに血ヘドを吐いて死ぬ」
と信じられてたそうな。


ところが、それをやっちゃったのが、平清盛さん。

清盛のドラマより
きよもり13


「人を、悩ませ惑わせ苦しませる神や仏が、あろうはずがない。
もしあらば、外道の用具に違いない」
と言って、矢を放ったそうだ。


矢は見事に命中し、清盛さんは倒れるどころかピンピンしてた。

なかなかやりますな~! 清盛さんも! 

・・・・・・・・・・・・・・・

さらに時代を経て、さすがに・・神輿を担いで強訴はなくなったけど、やっぱり信長さんの時代にも、まだまだ神仏を恐れるという感覚は強かったし、「比叡のお山は神域」というイメージはみんなが強く持っていたことだろう。

それをいいことに、延暦寺は相変わらず僧兵軍団は持ってるし政治にも口を挟んでくる。

え?どこが敬虔なる宗教団体なん?と思うほどに。

信長に敵対した浅井朝倉の残党は匿うし・・それも仏の慈悲の心で匿ったというのでもなさそうだし、
何やらあれこれと戦略をたてて企んでいたフシも大アリなのだ。


そこで信長は討伐を決心する。

信長にとっては宗教団体も敵対する武将も一緒のこと。
(信長さんは無神論者だから。 仏教もキリスト教も信じてないし天罰なんかありえね!って思ってる)

でも信長配下の武将たちは、ええ! 比叡山をやるんですかい??とビビりが入ったのも確からしい。

おいおい、キミたち、一向宗だって宗教法人じゃないすか!
なのに、一向宗を鎮圧するのは平気なくせに、なんで比叡山はダメなん?と、私も、ついツッコミを入れたくなってしまうのだが・・・

そこはやっぱ、一向宗は当時の新興宗教でポッと出だったし、比叡山は平安時代からの歴史のある大御所みたいなもんだったから・・大御所には神仏がついてる、畏れ多い! ってことだったのだろう。

今でこそ、浄土真宗も浄土宗も天台宗も、みんな歴史ある宗教になったけどね。


そこで武将たち、

比叡山は、なにかと敵対する態度だし僧兵で武装はしてるし、しかも女まで入れて最近は堕落した坊主が多いとは聞くけどさあ、
なんてたって歴史ある比叡山だからなあ。
仕方ないよな~、手出しは出来ないよなあ~。
つーか、いくら信長様の命令でも・・神仏がいるとこは・・したくないよな~!



というのが本音だったかと。


ところが、ここでまた言わせてもらうけど・・

信長さん、常識ってヤツを、もともと持ってないから。
信長さん、無神論者だから。


彼の中では、ただの敵の城攻めと一緒のような感覚だったのだろうと思う。


むしろ、そういった常識に縛られ何もできなくなってしまう家臣共に、あえて常識を突き抜けさせたいと思って命じたところもあったかもしれない。


さて、実際のところはどうだったのか?というと・・
    ↓
多くの罪の無い人々が何千人も殺され、山のすべてが焼け野が原で、何百年もの宝物も焼けて・・と言われ続けてきたわりには、

昨今の地質学的な研究によれば、この焼き討ちで焼失したのは根本中堂と大講堂くらいで、貴重な宝物というものも、言われているほどなかった・・という研究結果も出ている。



●馬揃えで天皇家に軍事力を見せつけたこと

●蘭奢待(らんじゃたい)の削り取りで、天皇家&公家に高圧的態度を見せつけたこと


この2つの出来事は、信長が天皇家へ、その軍事力を誇示し、高圧的な態度をみせつけるためのものだったと言われることが多い。


ところが、これまたちょっと調べてみると、

馬揃えのきらびやかなパレードがみたい!と言い出したのは天皇さんの方で、天皇さんが見たいって言うんだったら、この際うんと派手にやりますか~!となったらしいのだ。

蘭奢待(らんじゃたい)というのは、今でいうアロマ、炊くと良い香りがする香木のこと。 それも最高級品とされている。

東大寺の正倉院の秘蔵のお宝の1つ、そもそも正倉院というのは、東大寺の大仏様を建立した聖武天皇が生前に集めたお宝を、奥さんの光明皇后が1ヶ所に納めた倉庫のこと。 中のお宝は、ぜんぶ天皇家の物ってわけ。
ところが、天皇だっていつでも自由に出入りして見られるってわけではない



そんな場所に、信長さんが武力で正倉院に押し入って蘭奢待を切り取ってしまったわけではない!
(そりゃ、盗賊だがな~)

信長さんは、事前に関白さんの許可済みだったらしい。

ところが、天皇さんは、どうやらそれを聞かされてなかったらしいので、え?僕は許可した覚えないのに~!と驚き、ちょっと不快感を示したとか。

このときの天皇さんは正親町天皇だったと思うけど・・天皇公家衆といったって、こちらも1つにまとまってるわけじゃなかったみたいで・・正親町天皇vs.近臣たりの間でもなんやかやあったようだ(笑)


それにしても、なぜ信長さんは蘭奢待を切り取ったんだろう?

ちなみに蘭奢待を切りとった人を調べてみると。

寛正六年(1465年)、足利義政
天正二年(1574年)、織田信長
明治十年(1877年)、明治天皇


この3人だけ。

もっとも正倉院の宝物殿の見学が許されて、蘭奢待を実際に見たってだけの人だったら、他にもいる。
藤原道長とか足利義満とかも、見るだけなら見てる。 切り取らなかったけどね。

まあ、足利さんとか藤原さんとかは天皇家の親戚筋みたいなものだったけど、信長さんはまーーたく関係ない尾張の小大名の子だからねえ。 この中では確かに異質な存在ではある(笑)


なのに、なぜ、切り取ったのか?

香木に興味深々で欲しかったのか?
好奇心旺盛の信長さんだから、それもアリかもしれないけど・・なんとなく政治的な目的で奈良へ赴く口実として、正倉院に立ち寄った・・ような、そんな別の目的があったような気がする。

なので、高圧的な態度で武力で!というのは、実際にはあり得ないと思う。


若い時はうつけと呼ばれたり、こーんなファッションしてたらしいけど・・

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https://yururito-sengoku.com/sengokuodanobunaga1/sengokuodanobunagautuke.html

それでも斎藤道三との面会では、こうなったわけだから・・
   ↓
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若いときから筋目を通した方がいい時や場所は心得ていて、いつもヤンキースタイルでのし歩くアホじゃないってことだね(笑)

東大寺や春日大社を参拝する時の信長も、「一段慇懃(いんぎん)」と当時の関係者の日記(にも記されているらしい。
つまり、実に真心こもった礼儀正しい態度であったと書かれている。



●信長は神になろうとしていたという説

これは、安土城の一角だったかに、信長の代わりとなる御神体(ただの、そこらの石)を安置して、これを拝め~!って信長が命じたと、ルイス・フロイスが記したことが発端になったもの。


あははは。 これ、ホントにやったかもしれない(笑) 
これ、信長流のギャク入ってたんじゃないの?と、私は思ってしまうのだが・・。

神仏とか言って熱心に願いをかけたり拝んでる人を見て、アイツらアホか!
なんでも拝めばいいってもんじゃないだろ!
だったら、ワシも神になれるわい! と、そこらの石を拾ってきて、これがワシのご神体だ! さ、これでも拝んでろ!


みたいな事だったのではないかと・・(笑)


ところが、ルイス・フロイスはそれをマジに受け取っちゃって、信長は自分が神だと思っている!ってことになっちゃったのかも。

ルイス・フロイスって人、信長をなんとかキリスト教の信者にしようとして、見事失敗しちゃった人だからね~。

そこで、
この人は何の神も信じてない。自分が神だとでも思い混んでる!恐ろしいヤツだ!って自分で思い混んじゃったのか・・
それとも、キリスト教徒に出来なかった腹いせに、わざと信長を鬼のように描きたくなったのか・・・・

そこんとこはわからないけどね~。

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ルイス・フロイスもフランシスコ・ザビエルも属していたのはイエズス会だ。

キリスト教は博愛の精神で情け深くって、世界中の人々を救うため苦労して旅をして教えを広めてるんだな~と・・これまた私が小中学生の頃に思ってたこと(笑)

ところが、キリスト教の宗派も色々あって、当時だって宗派の違いで血を血を洗うようなありさまだったし・・また、イエズス会というのは昔から黒い噂が絶えないことでも有名な宗派でもある。


なぜ、この時代、イエズス会だけが日本にやって来たのか?

そもそも、世界中に派遣する修道士たちの生活費はいったいどこから出てるんよ?

それを誰が何の目的で出してるんよ?と考えるてみると・・なかなか、愛と博愛の精神で世界中の人の幸せにするため~なーんてキレイごとだけじゃすまない何かもありそう(笑)

イヤだね~、大人の世界は!


信長さんは、一切宗教に関心なし。

キリスト教を重んじたのは、広い世界に目を向けるため、新しい技術や道具を知ることが目的だった。(これは周知の事実)

仏教だって関心なし!

仏教の歴史で忘れちゃいけないことは、当時の、とくに庶民が信仰していた仏教は「来世仏教」だったということ。
これは死んでからのことが重要で、極楽浄土にはどうしたら行けるか、どうすれば地獄に落ちないで済むかが課題だったのだ。

だからこそ、ビンボー人はただただ拝むだけ。(それでいて不具者は前世の行いが悪かったせいにして無視しちゃったりする。・・これ前回に書いたけど)
金持ちはお堂を作って善行を積もうとしたりして、戒を破ちゃったことに対する贖いで許されようとしてたってわけ。
(人間、罪の1つも無いって人はいないからね~)

ただ「禅宗」はちょっと違って、死後のことはあんまり言わない。 それよか、とにかく座禅あるのみ。
座禅によって悟りを獲得するから、とにかく座禅あるのみだったそうな。

これもまた、信長さんの次元じゃなかったんだろう。



ならば、信長さんの死生観は?
それは・・「死んだら人は一握りの灰になる」


ここらへんのところが、スピリチュアル信奉者には、だから信長は権力と財力だけの唯物主義者だ!と嫌う人も多いところ。



だけど、私には信長さんが、即物的・唯物論者だったとは思えないのだ。
リアリストだったとは思ってるけどね。

彼が好きだったものは、茶の湯と能

利休を見出し用いたのも信長だったし、多くの茶器の収集をしたことでも有名だ。


茶の湯の極意、その魅力はどこにあるのだろう?


それは・・わびさびという言葉に尽きると思う。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%AE%A4

「侘び」というのは、「侘ぶ」という動詞からきていて「思い通りにならない感情」が原義だと聞いたことがある。
「寂び」の原義は「生命力が衰えること」なのだそうだ。
人が孤独で生きていく力が無くなったら、それは“寂しい”になり、金属も時を経て錆が出る・・ということにも通ずる。


思い通りにならないこと、古びて孤独になったり寂しくなること・・なんだかネガティブなようだけど(笑)

一見そういったネガティブの中に美を見出すのが、茶の湯の世界=日本人の美意識、ということになる。
形として完璧に完成されたものを求めるのではないところにある美=世界観みたいなもの。

それはもう、決してネガティブなものではなくなってしまう。
むしろ、ポジティブな輝きを持つ世界に変じてしまうのかもしれない。

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こうゆうところの、日本の美意識ってすごいよな~って、いつも私は感心させられてしまう。


日本の和歌の世界の美意識も同様のものだったし、また能の世界にも通ずるものがある。

観阿弥から世阿弥に伝えられたのが能楽で、世阿弥は父親の観阿弥から伝えられたすべてを「風姿花伝」という書物に残している。
能の理論書であり、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学、さらに人生論まで。
世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えたものも書かれているという。



私は読んだことないけど・・その中の有名な言葉だけは聞きかじってる。

秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。 この分け目を知ること肝要の花なり

それと、「幽玄」という言葉。


幽玄という言葉、またまた若い時の私は、どこか頽廃的な美しさみたいなものを感じてたんだけど・・
19世紀ヨーロッパに起こったデカダンス芸術みたいなヤツの日本版かにゃあ?と。(←アホやね~)

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能を、私はそれほど多くは観たことないのだが・・

名人とか達人とかって言われる人の能を観て、不思議な感動を覚えたことがある
面と取るとタダのお爺ちゃんなのに、演じているときは鬼であっても、生命力のある、なんともいえない美しさを感じてしまったのだ。

外面は静かで優雅なだけなのに、そこに内面から出てくる生命力や美しさが伝わってきて、それが感動になったんかな~。
な~んて、シロウトながらに思ったことがある。

内に力を秘めた強さ、生命力をもちながら、外はどこまでも静かで内面の力を感じさせない。
これが、世阿弥のいうなのかなあ。

それが幽玄なのかなあ、と。


たぶん即物的な人ならば、そんなものに美しさは見いだそうとはしない。

古ぼけた歪みのある茶碗より、ゴールドで作られた完全なる形をした茶碗を好むはずだし、
能を見るより、シルクドソレイユを好むはず(←シルクドソレイユは、あれはあれで見事だし私も好きだよ~)

・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

信長さんは、宗教を心の拠り所にはしない。
死んだら灰になるだけだと思っている。

思っているというか、そうありたいと思ってたのかもしれない。。。


彼の心の拠り所であり目指すところも、美の探究とその世界観にあったのかなあ、な~んて思ったりもする。


敦盛の舞が好きだったらしいけど・・

まさに滅びゆく平家の若武者、笛の名手だもんね~。

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あ、そうそう・・・私は知らなかったんだけど、信長が舞った敦盛は正確に言うと「能」ではなくって、「幸若舞」(こうわかまい)の「敦盛」なんだそうだ。

これを、たぶん型に忠実に踊るというよりは、自分流に行きついたところを舞っていたのかもしれない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、ここからは、私が思ってるだけの話。

信長さんの美の最終傑作=人生の最終達成は、安土城にあったんじゃないかなあ?。

たぶん、天下統一を達成するくらい、いや、それ以上にも? 
彼は全身全霊を捧げて作ったような気がする。

安土城


完成した安土城を、キリスト教宣教師、ガスパル・コエリヨは、このように評している。

「この城はヨーロッパのどの城よりも素晴らしい。
城内の広さ、大きさ、美しさをなんといって形容してよいか、私はそのすべを知らぬ。

城内には黄金の飾りをつけた御殿が立ち並び、そのつくりの見事さといったら、人の手の及んだものとは思われぬ立派な細工に埋まっている。
城の中央には7階の塔(天守閣)があり、その巧妙さをみると、日本の工人の腕には魔力が宿っているとしか思えない。

塔の中の彫刻はすべて金が塗り込まれ、白や黒、赤や青の彩色豊かに塗られた壁や窓。
そして青い瓦の屋根。 その瓦の前の箇所には金がかぶせてある」




とくに見事な青の色を出すため、瓦を特別に焼かせたというような話を昔何かの本で読んだことがある。


信長以降、天下の名城と言われる城を築いた人は多くいるけど、おそらく、安土城だけはまったく異質なものだった気がする。
コンセプトがまったく違うものだった気がするのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

信長さんの生き方を追っていると、「死んだら灰になって塵となって消えてしまうだけ」って考え方もアリかな~と思うようになった。

私は個人的には、そりゃあ幽霊だってわんさかいるし死んだら輪廻転生があると思ってる。

だけど、なまじっか、輪廻転生があれば、もう1回生まれてくるんだからいいんだ~って短絡的に考えちゃう甘ちゃんもいたりして、ゲームオーバーでリセットして、簡単に自死を選ぶような人もいるわけだし。

そんな人と比べれば、たった1度しかない!死んだらチリになって消えるだけ(←バンパネラか!)と思える人の方が潔い。

また、それだけ必死に悔いなく、生きられたような気がする。


信長さんは安土城を作ることと、天下統一を果たしたあと、何がやりたかったんだろう?
世界を人を、どのように導いていきたかったんだろう?


それにしても不思議な人だ。

●今まで天皇(または親族)しか切り取ったことのない、蘭奢待を切り取った人
(実際には30か所以上も切り取られた跡があるそうなんで、こっそり切り取った人は他にも続々といそうだけど、いちおう、堂々と切り取った人って意味で)


●世界に二つと無いような安土城を作った人

●天下統一目前にして本能寺に消えた人

●しかも焼け跡をどんだけ探しても死体があがらなかった人。

●信長の死と共に、美の傑作だった安土城も燃えてしまったこと。



私には、織田信長という人、日本の歴史上において、一番謎の多い不思議な人に思えてならないのだ。

ほんとに、バンパネラだったんかよ~と思うほどに(笑)

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ついついポーの一族のこのシーン、火の中で塵となって消えちゃうバンパネラのシーンを思い出してしまうのだ(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若い世代の人に、織田信長って知ってる?聞くと、「ああ、小栗旬ね」と即座に言われるとか。

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これ、面白かったもんね~。
漫画もドラマも!

常識に縛られることもなく人とは別次元を見ていた信長さんならば・・
ああ、これもアリだよな~、となぜか私には思えてくる(笑)

織田信長という人(その1)

日本の歴史上の人物で誰が好きですか?・・というアンケートによれば

<<ベスト3>>

1.坂本龍馬
2.織田信長
3.真田幸村

地域ネタドラマ・映画 【男女3,921名に聞いた】一番好きな歴史上の人物ランキング



この結果は、おそらく小説やドラマの影響による結果なんだろうなあと思う。

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とか、小田氏治(おだうじはる)とか、山中鹿之助(やまなかしかのすけ)って名前は、さすがに1つも上がってこないんだなあ~(笑)

戦国マニアのゲーマーでもない限り、一般の人たちには名前も知られてないのかもしれないけど・・「その道」では有名な人たちなのだ!(←その道ってどの道?て聞かれそうだけど・・)

そういえば・・大河ドラマで、以前かなりマイナーな人(吉田松陰の妹)なんかを主人公にしたこともあったのに、何故「その道」の有名人を主役にしたドラマがないのかなあ、といつも思うのだが・・。

まあ、そんな話は置いといて・・


織田信長は常に人気上位に入ってる人物だ。

天下人という括りだと、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康なのに・・その中でも一番人気は織田信長なんだとか。

ホトトギスのたとえ話だと、「鳴かぬならば殺してしまえ」だったし、

超現実主義な行動力、武力で押し通す、短気で残虐、革命児、常識破りのアウトローといったイメージが一般的なのになあ。



でも、ちょこっと調べたところにろると・・信長さんの人気があがったのは近代に入ってからで、それも1960年以降なんだとか。

それまでは秀吉さんとか家康さんの方がずっと人気だったとか。

たしかにね~、そりゃそうかも。

信長さんは、もうちょっとで天下人に手が届きそうなところで、残念ながら亡くなっちゃった人。
秀吉さんは、それをちゃっかり受け継いで天下人、
家康さんはさらに600年も続く江戸幕府の礎を築いた人。

さらに、性格的にも問題だし・・信長さんはアウトロー。 
天皇や将軍というった上下関係にも心底から重きを置いてなかったようだし、副将軍の位だって、そんなもんはいらね~!って断ったくらいの人。
逆に下々の者であっても、優秀な人材なら出自には全くこだわらずに、どんどん出世させちゃう。

早いはなし、完全なるリアリストなのだ。

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でも、そういったところが、「目上を敬うこと」が美徳だった時代の人たちから敬遠されたってのも頷ける。


ところが、60年以降の人々には、逆にカリスマ自由人のイメージで、どんどん人気がアップしたのもわかるような気がする。


さて、人の性格というのは、なかなかひと言では言えない。

ふだんはとても勇敢で頼もしい人が、いざというときに優柔不断なダメ人間になっちゃうこともあれば、
逆にいつもダメダメな人が、ものすごい勇敢な人になっちゃったりもする。

また、時が経つうちに人は変わっていくものでもある。


と、私は思っている。


信長は「怖い、鬼のような人」、秀吉は工夫をこらすタイプ、家康はがまん強い性格だったといわれているけど、
なかなか・・どうして(笑)

みなさん、それぞれに短気な部分も我慢強い部分もあり、工夫を凝らす知恵があるからこそ、強い武将でありえたわけなんだからね~。


中でも、信長さんという人物は「怖い、鬼神」というより、私には「いい人」に思える。
「いい人」というのは、薄っぺらないい人って意味でなく、「情の深い」ストレートな性格って意味の「いい人」だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

信長公記』という、信長の旧臣によって記された資料があるのだが、これは最も信ぴょう性が高い一級資料とされている。

その中に、信長が京へ上る途中、山中で片輪者の乞食を見かける話が載っている。(片輪者って差別用語だけどね)

旧中山道山中
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https://yaplog.jp/rekishi-meijo/archive/379

その乞食にひどく同情して、信長は村人を呼び寄せ、反物を村人に与え、この乞食が一生食っていくのに困らないように、実に細かい指示をしている。

ただ同情しただけだったら、その乞食にぽーんと銭かモノを与えれば済むことなのに、ここらへんの配慮の細やかさからみても、
ああ、これは、ただの気まぐれの同情だとか憐憫とかじゃないんだよな~と思わせるものがある。

そもそも、この当時の考え方というのは、

障害を持って浮かれてくる者は「過去性において大罪を犯したもの」であり、言ってみれば・・自業自得という考え方が主流だった。



たぶん仏教思想の1つ?

だから、気の毒でも仕方ないよね~、助けなくってもいいよね~。 ほっておいてもOK~・・という、実に都合の良い考え方が、常識とされてた時代でもある。


ところが、信長という人、常識的考え方に囚われない人。
気の毒に思えば、すぐに助けるという率直さ。 ストレート。


村人から見れば、今まさに京へ上ろうとする勢いのキラキラ武将が、一介の乞食を助けたわけだから、
人々は深く感動してしまった・・というエピソードが、わざわざ信長公記にも記されたのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここでもう1つ、最初にちょこっと名前を出した、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)さんのエピソードも紹介しておこう。


信長さんは、鳥居強右衛門の働きに、えらく感動して彼自身に出世を約束している。

この人、何をした人かというと・・

武田と信長(徳川さんも含まれる)軍の有名な戦い、長篠の戦いの前哨戦ともいうべきものがあって、

奥平貞昌(おくだいらさだまさ)さんという城主が、長篠城を徳川家康から託されて約500の城兵で守備していたところ、武田勝頼さんの軍勢1万5千に囲まれてしまう。

長篠城って、こーんな地形のとこだったんだね~。
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https://blogs.yahoo.co.jp/panzerjoji/16977456.html


そりゃもう、アリ一匹逃げ出す隙間もないほどに。
絶対絶命の状態。

援軍(信長軍と家康軍)は来るんか来ないんか?

だからさあ、やっぱ信長方より武田方についときゃよかったんよ~。
この際、さっさと降参して武田軍に入っちゃいましょーよ。 
そうすりゃ命は助かるんだからさ~。


と、重臣たちは喧々諤々。

ところが、城主の奥平貞昌さんは、徳川家康さんの人物に惚れ込んで傘下に下った人であり・・
(それまでは今川についたり武田についたりしてた)
つまり、深い信頼を寄せている。

家康さんは絶対我々を見殺しにはしない。 
この重要な拠点となる城を新参者の私を信頼して任せてくれたのだ。
今が、がんばりどころなんだ!!


と思ってる。


けど・・家臣たちには、そうは思えない。
城主様はまだ若い上、老臣たちに囲まれている状況なのだ。

どうみたって城主様、反対意見に囲まれて不利な状況なのだ。
なんとか家臣たちを説得して安心させて一丸となって・・と思うのだが・・それがなかなか難しいところ。


なんてたって、城から一歩も抜け出せない以上、情報ってのがまったくゼロだからね~。

そこで、

城主様が言い出したこと。

「だったら、現在、援軍は来てるのか? 来ないのか?
こちらの状況を説明して早く援軍が来るように要請する必要がある。
誰かが決死の覚悟で城を抜け出して、徳川軍まで走って確かめてくるしかない。

城主である私は城を抜け出すことは出来ない。 いずれにしても最後の責めを負うのは私だからね。
誰か私の代わりにいってくれる者はいないか?」


しーん。

誰もなかなか手を挙げない。

ところが、ここで鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の登場。

「あの~、だったら・・私がいきまっせ。」


鳥居強右衛門さんて人、身分はめっちゃ低い。足軽だったとも。
でも、この人もまた、若殿(奥平貞昌さん)の人柄に惚れ込んで家来になった人なのだ。

だからといって、取り立てて武勇や知略に優れてるってわけではない。
デカいだけの、むしろ鈍重と思われてる男。

えええ~、こいつが~!
絶対無理やろ~!
ああ、これで終わった~!


と皆が思うのをよそに、(←だったら、誰か行けばいいじゃんかよ!)

彼は見事脱出に成功。

蟻の這い出る隙もないところを、いったいどうやって?


それが・・便ツボから抜け出したという。(昔のポットン便所のこと)
そこから糞まみれになって、まず川に抜けて泳ぐって方法。

さすがに武田軍も、そんな過酷な臭いところから、💩まみれ💩の人が抜け出してくるとは思ってもみなかったんだろうね(笑)
(これは池波正太郎さんの「忍びの風」による説)


劇画タッチのスネエモンさん
   ↓
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https://gamewith.jp/sengokuenbu/article/show/105538

えっと長篠から、徳川さんのいる岡崎だと片道65キロ・・・これをひたすら、敵方に見つからないように隠れて走り通したんだとか。
つまり・・街道を走れないから山野を駆けたんだと思う。


こっちは、ゆるキャラ・スネエモン
   ↓
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http://blog.livedoor.jp/furusato_ouen/archives/1013931029.html

主君への愛と信頼で走りぬくって・・まるで走れメロスみたいな話だけど。

彼は見事に岡崎まで走りぬいちゃう。


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家康さんはびっくりして、すぐに信長さんに報告。


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信長さんもまた、

「そんな状況になってるなら大変だ!
準備を急げ急げ! すぐにも出発するぞ~!」


ということになる。

そう、援軍はちゃーんと進軍してきてたんです!

ところがなんてたって、あの、長篠の戦いだから・・
信長さんは、3万もの軍勢に鉄砲3000と馬房策の用意もあって、それなりの時間がかかってたわけ。


スネエモンはそれを聞いて大喜びしたものの、今度は早くこの朗報を長篠城にいる殿に伝えたい!
そうしなければ・・援軍が来ないと思い混んで、殿は切腹して開城しちゃうかも・・とか、色々焦るわけです。


「そんじゃあ、ワシ、戻って殿に伝えまっせ!」と。

おいおい!そりゃ、無謀だ!と、家康さんも信長さんも止めるのだが・・

また、スネエモンさんは走り出す。 またも65キロの道を!


ところが・・やっぱり・・今度は、武田方にみつかって捕まっちゃうのだ。

敵方の武田勝頼さんは、
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https://sengokumiman.com/takedakatuyori.html

スネエモンに
「オマエ、よくやったよな~。 見上げたもんだ! だけど捕まっちゃたんだから潔く降参して今度はワシの家来になれ!
重く用いてやる。
ただし、家来になる証に、明日の朝、長篠城に向かって援軍は来ないから、投降しろ~!と叫べ。」

と条件を持ちかける。

スネエモン、少し考えてから・・わかった! そうする!と同意するのだ。

この時代の常識として・・命がけで良い働きをした者は捕虜となっても敵方に優遇されるし、また、それを受けることも当然とされていたのだ。


そして翌朝。

スネエモンは、
「殿~! 援軍はもう、そこまで来てますよ~。
だから絶対、降参しちゃいけませんよ~! あと、ひと踏ん張りですよ~。」

と、叫んじゃったのだ。

なんでそうなる?

スネエモンは本気で、ここまでやったんだから我が殿も許してくれるだろう。 だから武田の家来になろうと思ってたのかもしれない。 だけど、つい、いざとなったら、自分でもあれれ~?と思いながら、反対のことを叫んじゃっただけかもしれないし・・

または、初めから、勝頼を欺くつもりだったのかしれないし・・

そこんとこはわからない。
でも、そう叫んじゃったのは、まぎれもない事実!


長篠城の皆々は大喜び。

ところが、勝頼さんは、約束が違う!と激怒。(まあ、そりゃそうだ!)
そこで、わざわざ見せしめに、高台でスネエモンを磔にしてしまったのだ。

それを涙ながらに、城主の奥平貞昌さんや家臣たちが見て、
「ここまでしてくれたスネエモンの死を絶対無駄にしてはいけない」と一致団結したのは言うまでもない。

結局、織田・徳川連合軍の一隊が包囲を破って救出に来るまでの間、見事に武田軍の攻勢を凌ぎきったという。


武田軍としてみれば、ますます逆効果になっちゃったというわけ。
勝頼さん、まだまだ、こうゆうところが若いんだね~。


この後のことは皆さんご存じの通り、長篠の戦いになり、それが武田家滅亡へと繋がることになる。

さて、この鳥居強右衛門を、家康さんも信長さんもひどく感動し深く死を悼んだという。

亡き鳥居強右衛門の息子も重く用い、彼の殿だった奥平貞昌さんのことも重く用いることになる。

家臣にそれほどまでに信頼される殿というだけで奥平貞昌さんの評価もぐーと上がったし、事実また、その評価に値する人物でもあったらしい。


信長さんは、スネエモンの殿、奥平貞昌さんの戦いぶりを賞賛し、信長の偏諱「信」を与え、のちに、奥平信昌と改名することになる。 信長の直臣でもないのに・・むしろ新参者でしかも徳川の部下に偏諱を与えるってかなり珍しい。

もちろん鳥居家も、その後ずっと徳川政権になってからも繁栄していく。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

スネエモン話、長々書いたけど・・信長さんは、どうもこうゆう話に弱いらしい。

こうゆうことに深く感動してしまうところがある。

自分も常識外れのせいか、常識外れで命がけで事を成そうとする人にはついつい、共感を覚えてしまうのかもしれない。


この話は、武士の忠義といってもてはやされている。


ところが、ひとこと言わせてもらうと、

忠義とひとことで言っても、「部下の立場上なにがなんでも大将に従う、絶対裏切らず尽くす」という忠義とはぜーんぜん中身が違っているのだ。


たとえば、逆パターンでこんな話がある。
    ↓

ある勇猛な槍働きをする足軽が、ある武将に仕えて大活躍をしたため、戦を勝利に導いた。
その武将の、また上の大将が大喜びして、その武将に何万石もの恩賞をとらせたそうだ。

ところが、その武将というのが、かなりセコイヤツだったらしく・・自分の部下の働きだったことを自分の大将にひと言も告げずに、ぜーんぶ自分の手柄にしちゃったらしい。 もちろん、加増分も独り占め。

それを見た勇猛な足軽は、「こんな男はダメだ~! もっと俺が命がけで仕えることにできる主人を探そう!」と、さっさと見限って出て行ってしまったんだとか。



ええ? これじゃあ、まるで忠義心が無い?と思われがちだけど、

これはまさに、スネエモンと同じこと!
「惚れこんだ男になら命をかける」という点で、そんな主人に巡りあったか、まだ巡り合ってないかの違いだけ。

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https://www.toyorigin.com/collectibles/pop-toys/devoted-samurai-standard-version-1-6-scale-figure-ex026a/

主人の人物を見極めることもできずに、ただ忠義さえ尽くしてればいいと思うのは、ただのアホということになっちゃう。
江戸時代に入ってからの武士の忠義は、だんだん、こうなっていっちゃったようだけどね~。

これが戦国時代の「正しい」忠義の尽くし方。

これぞと思った人物に仕える、そして死を恐れず勇敢に働くこと。
それに対して、上司も信頼し重く用いることで、さらに両者の絆が深まっていく。


早い話、その人物に惚れてるか恩を感じてるか・・なのだ。
そこから生まれるのが「忠義心」なんだと思う。


信長さんは、そこらへんは実によくわかってた人のようだ。
だからこそ、有能な部下がいっぱいついてきたわけだし。

もっとも信長さんだけじゃなく、それぞれ名を残すような武将はみ~んな、それだけの器を持ってたともいえるだろう。

織田信長をトップに、その下が家康さん
逆に下から言えば、スネエモン ⇒ 奥平貞昌 ⇒ 徳川家康 ⇒ 織田信長

トップの信長さんが、一番下の足軽のスネエモンに直に対面して出世を約束しちゃうのも、なかなかない話。



やっぱり、「熱く情の深いストレートな性格」、いい人だった信長さん、

だけど、それだけじゃない。

同時に緻密なほど計算高く、現状把握ができて、先見の明もある。
人を上手に使う才能
もあった人だ。

みんながみんな自分の人物に惚れてついてくる部下ではないのも承知の上。
目先の損得だけでついてくる武将もいただろうし・・・それでも、こいつは役に立つと思えば、ちゃーんとそれなりの部署に配置して使い分けている。


ただの「いい人」だけだったら、必ずそのうちコケる。
戦国時代をタフに上り詰めるなーんて、絶対ムリ。

信長さんの緻密なほどの計算高さと冷静な目もあったればこそ・・だったんだと思う。
さらに世間の常識には一切無関心つーか、もともと持ち合わせてない人・・だったんだと思う。

渡辺健さんの織田信長より(←私はこの信長さんの、このシーンの立ち居振る舞いが一番美しかったように思う)
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ところが、なぜか信長さんの「いい人」部分はスルーされて、残虐・冷酷非道の部分が強調されて描かれることが多い。

では、次にネガティブ部分をみてみよう。

<<長くなりそうなんでいったん切って、次回に>>

男尊女卑というジェンダー史

大学1回生の頃、友人たちと居酒屋にいたときのこと、
サラリーマン風のオヤジグループが「奢ってあげる」と割り込んできて、一緒に会話に参加するなんてことになった。

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なんの話をしてたのか忘れちゃったけど、あるオヤジが偉そうに、こんなことを言った。

「女ってのはね、男と違って感情的直観的に出来てるものなんだよ。
男は頭で考えるけど、女は子宮で考えるっていわれてるくらいだからね。」


ムっとした私は、「へえ~、おっさんは、そうゆう女としか付き合ってこなかったってことだね。」と言ったのを思い出した。

オジサンは、じゃなくって・・たしかに、オッサンと言った記憶がある(笑)
それも、かなり・・偉そうどころか、かなりの「上から目線で」いった覚えがある(笑)

当然、気まずい空気が流れる中、今度は隣にいた友人が、

「あ、そうだ! 女は子宮で考えて男は睾丸で考えるんだ!」と大声で言ったものだ。

こ、こうがん? 

そりゃ名言だわ~と、なぜか全員納得(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「男は頭で考え女は子宮で考える」という言葉が本当にあるのかどうか、どこから出た言葉なのかは知らない。

若かった私は、その言葉を女性蔑視と捉えてムカついたのだ。


あれから少しは成長した今の私からみれば、ああ、それもアリかな?って思えないこともない(笑)

頭で考えるだけでは答えは出ないし、直感や本能に従うだけでも道を誤る。
つまり、両方が必要なのだ、という教訓


本当のところはどうゆう意味かは知らないけど。


さて、このときの、オッサンがどういう意図でいったのかは今となってはわからない。

女は所詮そういった生き物なんだがら、良き妻となり良き母になるべきなんだよ・・と言いたかったのかもしれない。


これは昭和時代の話だ。
いまどき、そんなことを公衆の面前で言ってしまう男はいないと思う(笑)


ところが、国会議員のオッサンが、

「新郎新婦には、必ず3人以上の子どもを産み育てていただきたい」とか
「子供を一人も産まず青春を謳歌してきた女性の老後を、税金を使って面倒をみるってのはどうかね~。」とか

発言しちゃったんだそうだ(笑)

いくら少子化問題が頭にあったとはいえ、政治家が「ジェンダー差別発言」はまずいし、そもそも、問題はそこじゃないだろうに~。

おそらく、このオッサンたちは、遠い昔の昭和時代から、ちーーとも成長していない人たちなのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アメリカの大学のマスターコースにいる友人で、ジェンダー問題を専門に研究をしている人がいた。

私もその人の話に興味を持ち、自分でもいろいろと調べてみたことがあった。


★女性参政権

過去において、女性には参政権すらなかった。。。

そんな中、一部の欧米諸国の女性たちは、女性の地位改善を目指し参政権獲得に命がけで戦ってきた人たちもいた。
   ↓
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https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-42971614

これはイギリスの100年くらい前のポスターだそうだが、このように書かれている。
    ↓

法廷用のガウンを着た女性 「ここから出ていい時期なのに、鍵はどこでしょう?」

「犯罪者、狂人、そして女性たちは! 国会選挙に投票できない」



先進国と言われている欧米諸国は、いずれもこーんなものだったんだなあ、と思う。


欧米諸国では長きに渡って「女は結婚し妻となり家庭に入り育児をするもの」という考え方が主流だったようで、
もしも結婚できなかったら? 夫と死別したら? 娼婦になるしかない・・ような時代だったともいわれている。

それでは、男尊女卑と言われても仕方がないだろう。


★日本の昔

では、日本はどうだったのだろう?

日本は明治政府になってから、大きく変わった。
何事にも欧米風を取り入れたため、法の上から、男尊女卑を明確に形づけてしまったように思える。

それまでの藩制を廃止し完全な中央集権にして、列強諸国に負けないよう国作りをしなきゃならなかったんだから、法でがんじがらめにしようとしたのも、頷けないことはない。



それまでの日本をみてみると、男尊女卑という概念は無い。
「専業主婦」という考えもない!


食べていくことがあたり前だった庶民は夫婦揃って働いていた。

小さな子供はおんぶして働いていた。
    ↓
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広重の東海道五十三次より

少なくとも江戸時代の女性たちはバリバリ働いた。

江戸で働く女性たちには、実にさまざまな職業があったという。

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若い女の子たちの憧れの職業といえば、
   ↓
水茶屋・・喫茶店兼休憩所
麦湯売り・・麦湯とは麦茶のことで、夏ドリンクの定番
房楊枝屋・・優雅に房楊枝を売るのが人気だったとか。



パワフル系なら、
   ↓
料理屋・・かなり皿が重かったんで、主に力自慢の女性の仕事
留女・・旅籠の呼び込み専門

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行商人(ありとあらゆるものを売って歩ける)
海苔売り、針売り・・・これは婆さんたちの仕事、海苔や針ならば軽いので持ち歩けるので。


季節商売ならば、
   ↓
枝豆売り・・なぜか子供を背負った貧乏女が多かったそうだ。
鮎売り・・多摩川で鮎を獲って売り歩く



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子供を背負た貧しい枝豆売りの話は講談で聞いたことがある。

スキルがあれば・・
  ↓
三味線や小唄の師匠
手習いの先生
仕立物
養蚕・機織り
見世物小屋の奇術師、軽業師
旅芸人
綿摘み
・・黒い塗り桶に綿を乗せてほぐして小袖に入れる防寒用の綿にする(主に内職仕事だったらしい)
産婆(さんば)
髪結い
・・カリスマ美容師ともなれば超人気でかなりの儲けがあったとか。


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セックス産業がお好みならば、
  ↓
矢場の女
宿屋の私娼
飯盛女(めしもりおんな)
遊郭
(←これもお仕事で月々の賃金も決まっていたし専門の斡旋所もあったらしい。今でいう派遣社員か?)


https://edo-g.com/blog/2017/08/womens_work.html

ざっとあげただけでも、女性の職業は実にいーーぱい。
(ただし・・これは江戸の街やその近郊に限った話なので、貧しい地方にいけば話は別)


農家でも女も同様に畑仕事をしたし、街中に野菜を売りにいったりと、
むしろ、江戸の女は自活力があるので強かったといわれている。

男女の人口比も、男の方が圧倒的に多かったそうなので、女は引く手あまただったとか。
どんな鬼嫁でも、なかなか離縁も出来ない(笑)・・な~んて、可哀そうな男のボヤキも残っている。



これらは庶民の生活だが、武家社会ともなると、これまた話は別になる。

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武家社会では、「完全なる家長制度があって、女は家にいるもの」とされていた。

自由に出歩きも出来ないし、恋愛も結婚も個人の自由はない。

これでは女は男の所有物かい? 男尊女卑?と現代では勘違いすることも多いけど(笑)

これは単なる女性の「役割」 お役目なのだ。

武家は、とにもかくにも「お家の存続」重視。

男も女もそれに向かって一丸となっているだけなのだ。


男だって、自由恋愛⇒結婚、ができないのは一緒。 結婚もお仕事でありお役目。
男性は側室を持つこともできたけど、それだって、好きな女ならだれでも簡単に側室に出来たってわけじゃない。

まず、養えるほどのカネ持ってる殿様じゃなきゃならないし、側室を選ぶにしても周囲に認められた人でないとアウト。
悪い風評がたてば、お家おとり潰しにも繋がる。 おとり潰しが流行ってた時代でもあったから(笑)


殿には殿の仕事(お役目)があり、妻には妻の仕事(お役目)があり、側室には側室の仕事(お役目)があるという完全分業制。
家を守り繁栄させるために一致団結した協同組織みたいなものだったのだろう。


では武家の妻の仕事とは?

奥の総取締。
お金の管理、使用人たちの管理、側室がいれば彼女たちのケアー役、客人の接待、夫のサポート、情報集めをしたり、夫の相談役だったりと、ありとあらゆる奥向きの仕事が山積み。

ただし家事は下男・下女がやってくれるし、子育ては乳母がいるし、長男ならば、傅役(もりやく・教育係)という人物が、ちゃーんと付いていたはずなので・・それらの管理役。

これが、江戸時代の奥方の主なお仕事だ。


https://jjtaro-maru.hatenadiary.org/entry/20110123/1295765493


一番気の毒だったのは、30俵二人扶持あたりの下級武士。
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http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im4146593

格式を重んじる武士はバイトも出来なけりゃ、奥方を働かせるわけにもいかない。
それでも武士と名がつく以上、しきたりにがんじがらめになるし、冠婚葬祭のしきたりだけでもカネはどんどん出ていくだけ。

庶民のような自由は少ない。
個人の自由を愛する人なら、この時代、武士には絶対生まれたくないだろう(笑)
たとえ高級武士であってさえも、


さて、武家社会がこのように確立されたのは、おもに徳川政権が確立から。


★明治時代以前に活躍した女性たち

それ以前、まだ戦国の気配が残っていた頃の徳川家康さんの時代だと・・
女性の表舞台での活躍も大きかったのだ。

家康さんはたくさんの側室を持っていたけど、中でもお気に入りだったのが、阿茶局(あちゃのつぼね)、彼女は大坂の陣では豊臣方の交渉役も務めたことでも有名な人だ。

出自も甲斐武田の遺臣の娘というだけで特別良い家柄では無いし、家康との間に子供をもうけたわけでもないのだが、彼女の才気を買って奥向き一切を任せ、しかも家康の相談役でもあり、敵方の交渉役にも抜擢されたという人だ。


もう少し時代を遡れは、のぼうの城に登場した、忍城の城主・成田氏長の娘、甲斐姫

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「東国無双の美人」と賞賛された一方、軍事に明るく武芸に秀でていた人でもあり、

1590年7月、豊臣方の小田原征伐の際に石田三成が率いた23000人の豊臣軍を相手に、兵300領民2700人のたった3000人で抗戦。

クレージ~。
なんなんだ? この、不屈な戦闘魂は!

石田三成は10万人もの人夫をかき集めて水攻めなどを行ってもなかなか落ちず、 逆に主家の小田原城・北条氏の方が先に降伏しちゃったというお話。


もう、こうなると、男も女もないのかもしれない(笑)


戦国の世であれば、女であっても家を守るためには、甲冑に身を包み戦略に長け、第一線で活躍した女たちもいたのも事実。

実際、乗馬や弓矢が得意な姫君も多かったらしいし、また家によっては、幼少の頃から兵法・武術も教育されていた姫君もいたという。


も~っと時代を遡れば、巴御前
木曽義仲(源義仲)の側室であり、この人は武者としても源義仲に仕えていた人でもある。

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「平家物語」によれば、「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」と美しさを賛美される一方で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」

めっちゃ美人でありながら、めっちゃ強かった女武士と書かれている。(もちろん、脚色かもしれないけどね・・)

最後は、義仲軍はたったの7騎になり、敵襲の際に巴御前が一人奮闘して義仲を逃がしたという。

まさに主に使える武士の鏡(笑)


『吾妻鏡』によれば、
当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。
鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていた。





中世~明治期あたりまでをみると、庶民であれ武士であれ、日本の方がずーーと女性が活躍できる場があったようだ。
同様に、決して女性の地位が低いというわけでもない。


それ以前の古代をみると、古代日本は母系・父系双方の親族集団に属する社会だったので、豊富な経験と統治能力があれば、女性でもさまざまなポジションも可能、事実多くの女帝の存在がある。


ただし、8世紀に律令官僚制が導入されると、表舞台は父系・男性優位の原理が埋め込まれるようになったのも事実。

なぜか海外に見習うと、明治以降も同様だけど、男性を表舞台に立たせようつとする意識が導入されてしまうようだ。

それでも、また乱世に入ってくると、女武士やら女政治家も台頭してくるんだから、日本という国は根本的な意識の底には、
ジェンダー差別という意識は持ち合わせていないのかもしれない。

むしろ役割の違いこそあれ、日本人の中には基本的に同等という感覚を持っていたような気がする。




★フランスの話

それにくらべて、中世~近代の欧米諸国では女性は大変だったようだ。

フランスはパリでさえ、ひとりの女性が働く場所はほとんどなかったという。

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せいぜい、若いうちなら帽子屋さんやドレス屋さんのお針子に雇ってもらえるかもしれない。
でも、それで独り立ちするのは皆無。 ショーウインドーのそばでお金持ちでステキな男性が自分を見初めてくれるのを待っている子が多かったという話が残っている。

結局のところ、一人で女が働ける場所が無い以上、男性に養ってもらうしかないのだ。
行きつくところは、妻か娼婦か? 二者択一?


なぜ江戸の女たちのように、さまざまな行商でもして、自活しようとしなかったのだろう?

おそらく、世間がそれを許さなかった! そんな気がする。 

仮に女性が売り歩いたとしても誰も買ってくれなかった・・ということかもしれない。 
男の仕事をする女は世間から敬遠された?

つまり、何をやってみても商売にならない。


唯一女性が売り歩けたのは「花」だけだったそうだ。

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江戸の男たちは、商品がよければ女だって男だって構やしない。
むしろ、キレイな女の行商から買いたい!て思ったのか?(笑)

女がひとり立ちするには、あまりにも過酷だった欧米社会。



それでも、フランス中世期を登り詰めた女性もいる。

マダム・ポンパドール(Madame de Pompadour)だ。 

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ルイ15世の公妾だった人。・・公妾ってなんや?と思ったんだけど、公の認める国王の妾ってことで、公妾ともなれば、かなりのお手当も支払われるようになり身分も保証される、れっきとした役職でもあるらしい。

このマダム・ポンパドールは、銀行家だった平民出身の家柄。
ところが、両親はブルジョワ階級並みの教育を施し、18歳?だったころに「ハクをつけさせるため」に結婚させられる。
(注:当時フランスでは、未婚者の場合は不倫とされるけど既婚者が浮気をしても恋愛とされたとか?
いずれにしても、当時のフランスでは一度結婚経験がある女性の方が価値は上がったのだそうだ。)


その後超一流サロンに出入りするようになると、国王ルイ15世に見初められて公妾となって王宮入り。

美しかったことはもちろんだけど、この時代のフランスでは、美しいだけの女は相手にされない。

誰にも引けを取らない教養、会話術、ファッションセンス、審美眼がものをいう時代。


それでいて、やっぱり、この時代は、貴族階級だけがモノをいう時代。
平民階級の彼女は、どれほど素晴らしい人物であっても、王宮では白い目でみられたという。

もちろん、人々の妬みだってあったことだろう。

ところが、彼女はしだいに周囲の人々を味方につけてしまう。
王妃も貴族階級のおば様方も、宰相も大臣たちも、誰もかもが彼女のファンになっていったという。


夫であった、ルイ15世は政治には無関心ですべて人任せ。
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当時のフランスは決して安泰だったわけではない。

なんといっても七年戦争の時代だったのだから。

そこでマダム・ポンパドールは、政治に乗り出すことになる。

昼間は執務をとる。

彼女の一番大きな功績は、1756年、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じイギリスに対抗し、プロイセン包囲網を結成したことかもしれない。
(あ、ぜんぶ、女性政治家だよね~)

とくに宿敵オーストリアと和解にこぎつけたことは、彼女の画期的な快挙だったのだ。
のちに、その和解の証としてマリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなるんだけどね~。


でも、マダム・ポンパドールのお仕事は公妾なんだから、本来はルイ15世との夜の寝室が舞台なのだ(笑)

もともと体が弱かった彼女は、昼は政治で、しかも夜の相手なんかしてたら体力が持たない。
そこで30歳を超えた頃から、きっぱり断って、国王をささえる「親友」に徹したという。

その代わり、国王のために鹿の園(ベルサイユの森に開設したとされる娼館を建ててルイ15世好みの若い女性たちにお相手をさせたそうだ。
それも市井の女の子たちに賃金を払って雇い入れたのだという。


彼女の功績は政治手腕だけでなく、啓蒙思想の庇護者でもあり芸術の熱心な愛好家でもあり、多くの芸術家のパトロンとなり庇護し、芸術の発展にも努めてた。 

これがフランスを中心に、優雅なロココ様式の発達した時代へと繋がることになる。

結果的に、マダム・ポンパドールは42歳でベルサイユで亡くなるまで、王が最も信頼する人として寵愛を受け続けたという。
(当時、死病に侵された人間は僧院に移され、ベルサイユから出される慣例だったそうなのだが、彼女だけは特別扱いだった)


Wikiで

ポンパドール夫人というのを調べたところ、
このように記述されていた。
   ↓

フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。



なーんとなく、このニュアンスって・・女が有能な政治家であることなんて許せない!というタイプの男が書いた記事のような気がして苦笑してしまった。

日本においても、男に代わって政治手腕を発揮した北条政子や日野富子を悪女にしておかなきゃ気が済まないという人もいるけど、まあ、似たようなものか~。




そういえば・・
ずいぶん前だったけど、ポンパドールスタイルという髪型が流行ったことがあったなあ。。。

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前髪をふわっと丸くしてアップにするスタイル。 もともとは彼女が考案して流行させたとか。

また、私が東京に住んでいた頃、ポンパドールってパン屋さんがあったなあ。
赤っぽいロゴでたしか、ロココ調の貴婦人のマークだった記憶がある。

何百年も経遠い日本でも彼女の名前は伝えられているってことなんだなあ。



★イギリスの女王の例


一方、高貴な生まれの女王であっても国を傾けてしまうという悪い例もある。

イギリスのメアリー1世は、ブラッディ・マリーの異名を持つくらいの人だし(笑)

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結婚制度って?のブログでも書いたけど、
ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘、エリザベス1世の異母姉妹のお姉ちゃんだ。

メアリー1 世は熱心なカトリック信者であったため、イギリス国教会もプロテスタントも、メチャメチャ殺しまくった。 
貴族であろうが一般市民であろうが、あまりにも殺戮の限りをしたために、ブラディー「血まみれ」と呼ばれるようになったとか。

11歳年下のスペインのフェリペ2世と結婚し男に溺れ、イングランドを危機に陥れた人としても有名。
フェリペ2世の方は国益のための結婚と割り切ってたようで、都合をつけてスペインに帰ってしまう。
どーやら私捨てられたらしい?と知ると・・メアリーはますます危ない人になっていったという。

自分に反対する一派を粛清し、反対する庶民も殺害、まるで独裁ぶり。 こりゃもう、恐怖政治だ!

国民からは嫌われ恐れられ、早くエリザベスの時代にならないかと皆が待ちわびていたという。
メアリー一世の訃報を聞いたとき、国民がみな歓声を上げたという。(死んで大喜びされるってのも、すごいもんだにゃ!)


だからといって、女だから恋愛に溺れやすいということではないようだ。
男性君主でも恋に走るあまり国を傾けてしまった例は実に多い。
(えっと・・誰だったか忘れちゃったけど、君主(男)が男の恋人に心を奪われて国をメチャメチャにした話もあった)


要するに・・領土を収める者は個人的感情は後回しにしなければならないのだ。

そこに男女差は無く、国家を収める資質があったか? 国家を収める責任を持っていたか?ということに尽きる。


★中国・朝鮮、そしてイスラム圏では?

まず、中国と朝鮮史を調べてみたのだが・・

国を動かすような女性というのが、見事なまでにいないのだ!
これには、びっくり。

あ、唯一いた女帝は、中国の則天武后
ただし、ポンパドールのように自分の才覚で味方をつけて、のし上がったというよりも、「君主の母や妻が代行する政治」という状況をちゃっかり利用しただけのようなのだ。

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この人、憎らしい側室を抹殺するために、自分の娘を殺してその女に罪を擦り付けるとか‥結構あざといことをいっぱいしてる。
まさにドロドロした女の世界の、コワーい人でもある。


なぜか、古代中国や朝鮮では、女は美人に限る!という風潮が強かったようで、
側室にするには、出自よりも美人であればオッケ~。
フランス人のように教養にもこだわらない。 そんなん、無くってオッケ~。 

礼儀作法くらいはちゃっちゃと教育して王宮に差し出すということをしていたようだ。

うーーむ、ひょっとすると・・こちらの国々の方が徹底した「ヒエラルキー社会」で「男尊女卑」の国だったのかもしれない。

欧米諸国でも同じ傾向はあるけど、それでも女性たちが政治を行っている例がいくつもあるのに・・
むしろ、「皆無」という事実の方に驚いてしまう。


男の世界には口出すな!の世界なのか?


同様にイスラム圏の歴史上でも重要な役割を果たした女性というのが、あんまり出現していない。


ただ、古代にはスキタイの女戦士や、女族長なんかもいたので、第一線で戦う女性もいたようだ。
「いたようだ」というよりも、むしろ、女戦士が多い(笑)
  
イランササニッド時代の女性(西暦226〜651年)
     ↓
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スキタイの女戦士
   ↓
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https://freethoughtblogs.com/taslima/2012/07/07/women-had-more-rights-in-pre-islamic-period/


ところが、イスラム教が起こると、

イスラムの社会秩序の中では女性は男性に守られるべき存在であり、公的なポジションに女性が就くことは稀になった。

その代わり家庭内では女性が完全に仕切っていて男は口出しできなかったという。

家庭内の教育も母親の役割であり、女性の地位が低いというわけでもなく、やはり、完全な分業化だったといえそうだ。


しかし、朝鮮では家の中でさえ男(家長)の権力は絶対!

儒教のせい? で、女性は男性に服従しなければならない、ということだったのかもしれない。

ただ・・そういった儒教精神が支配するということは、
彼らの意識ベースに「それをすんなり受け入れる国民性があった」と言えるのかもしれない。


チャングムの誓いという、女性の立身出世ドラマが流行ったらしいけど・・
あの時代「人の体に触れる職業は卑しい」とされていたため、結局のところ、医女として宮廷の女官になろうが、「偉大なるチャングム」の称号をもらおうが、奴婢であることには変わりはなかったようだ。

実際は身分が上がることさえなく、上位のものには一生服従を強いられるという。
すべては生まれで決まり、男女差の壁も破れない。

そこには曖昧さはなく、実に徹底されていたようだ。

そんなに蔑まれてきた歴史があれば、そりゃ、女性は火病にでもなっちゃうかもしれない(笑)
と、なんだか同情的な気持ちにさせられてしまった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうやって、ざっとだけど、さまざまな国のジェンダー史をみていくと、

基本的に日本はジェンダーによる差別は無かった国といえそうだ。

もちろん、それぞれの時代・地域によっては、男女差別が強い地域もあっただろうし、今でも残っている地域はあるのかもしれない。

それでも、やっぱり同時代の各国と比較してみれば、差別という感覚は少ないように思う。



大きく変わったのは、やはり・・明治政府になってから。

西洋諸国の価値観を導入したことによって明確な男女差別を形作ってしまったように思える。

たとえば不倫。 この時代の言葉でいえば「不義密通」のことだが・・

●江戸幕府の定めた「御定書百箇条」によれば、「密通いたし候妻、死罪」
不倫した女もその相手の男も死刑・・・実にシンプル(笑)

●ところが、明治の法律では、
妻が行った場合は夫の告訴によってその妻と相手の男とが処罰(禁固6か月~2年)されたが、夫が行った場合、その相手が人妻でない限り処罰されない・・というもの。



どうみたって明治時代の法律は不平等過ぎないかい!


江戸時代の法は、「どっちも死刑」と、実にシンプルで厳しかったものの・・実際にはそこんとこは曖昧にされていた部分も多い。

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「すんませんでした~! 深く反省してますよってに今度だけは勘弁してください。大事になると家名にも傷がつくし奉公人も路頭に迷わせることになりますし~。」

「しゃーねーなあ。 んじゃあ、今回限りは、お目こぼしにしてやろう。」

なーんて具合に。

さらに、あれだけ厳しい武家社会においても、
「こんなことでお家取り潰しじゃ気の毒だ。もともとは良い領主なのだから、今回はお目こぼしにしてあげよう。」とか

身分違いの恋愛で、泣く泣く恋を諦めようとする長男のことだって、
「まあ、アイツは良い跡取りの素質十分だし、相手の女も身分が低いというだけで立派な嫁になる素質は十分なんだから、武家のしかるべき家の養女ってことにして、一緒にさせてやろーかの。」
なーんてことも、そこそこあったらしい。

ま、何事にも「お目こぼし」ってヤツがあり、日本人特有の「本音と建て前ってヤツ」があった。

それを「汚い不正」と捉えるか、それとも「情状酌量の温情」と捉えるか?

それは時と場合にもより、人によって受け止め方も違うことだろう。


欧米諸国が、常に善か悪かの徹底した二元論になってしまうのに対して、

日本は、ゆる~~いところだ。


欧米的二元論は、長年に渡ってキリスト教会によって支配されてきたということが大きな原因だろう。

一方、日本人は厳しい法を施行されよるが仏法やら儒教を説かれよるが、結局のところ、心は自然体なのかもしれない。

だからこそ、一神教に支配されることもなく八百万神(やおよろずのかみ)がいる国なのかもしれない。


ジェンダー問題もまた同様。

男のくせに! 女のくせに!なんて言葉を発しながらも、
ま!いいか~! アイツはアイツで頑張ってろんだし、どっちでもいいや!というところに落ち着いてしまう。

どこか、そのような生き方が見えてくる。


つまり・・

現代の女性たちが思うような・・
「昔から女は子供を産む道具にされてきた。 男尊女卑の世界だった」という意識は、
当時の女性たちは持ち合わせていなかった。

それぞれの役割にプライドを持って生きていたように思える。


そうは言っても、
いつの時代だって、自己中人物はいるし、レイシストだっている。


それでも、こうやって歴史を眺めてみると、総じて日本人はゆるーく生きてたのかな、という気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現代でも、ある種のオッサンたちは、いまだに「女は結婚して子供を産むもの」と信じて疑わない人もいるのかもしれない。

それは、明治政府が植え付けた先入観から抜けられなくなっちゃってる人たちなのだろう(笑)
かわいそうに~。


言うまでもなく、男も女もそれぞれの生き方がある。


「結婚して子供を持ち専業主婦になること」もその1つ。


ただし、自らがそう望んでしたことと、「女だから、そうしなきゃならない」と思ってしたことでは、そこには大きな意識の違いが生まれる。

また男性側も同様だ。

心の底でジェンダー蔑視を持ち「女は男の仕事に口出すな! 育児と家事だけしてろ!」
なーんて本気で思ってるとしたら、そこに未来はない(笑)


夫がどんどん出世し家も安泰・繁栄した家というのをみると、妻が夫の相談役にもなっているケースが実に多い。

徳川家康さんの「阿茶局」さんも、秀吉さんの「おね」さんも、山内一豊の「千代」さんも、夫の仕事に口出ししまくってる(笑)
夫も、ちゃんと耳を傾けている。

アメリカのメイシーズという有名デパートの共同責任者、イジドー・ストラウスは、なんでも妻のアイダに相談したという話も残っている。(19世紀~20世紀初頭にかけてのアメリカでは妻は専業主婦、一般的に男は仕事上のことは妻に話さないのが常識)


戦国時代の領主であれば、「お家思い」の、先祖代々の家臣も多かっただろうし、相談役もいたことだろう。

ところが、今、唯一のブレーンになりうるのは、外で働く夫にとって妻だけなのだ。

結局のところ、どんな時代に生き、建て前はどうであれ・・やはり、信頼できる最強の見方を持っているかどうかで、今後の運命は大きく変わることだろう。

「夫婦」は最小限の最強チームといえそうだ。

そこに、ジェンダー蔑視なんて入り込む隙はないのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・

私はそんなことを学んだ気がする。

どんなに血筋がモノをいった時代だったり、女性の進出が難しいとされる時代であってさえも、

マダム・ポンパドールのように、いつのまにか周囲を賛同者に変えてしまい、自分の望む道を進んだ人もいたわけだし、それも可能だったという事実。

明治の時代にだって、与謝野晶子さんのような、超スーパーウーマンだっていた。

早い話、
その気になりゃ、どんな時代だってなんでも出来る!

それを時代や世の中のせいにして、男社会が悪い!なーんて愚痴ってるよりも成し遂げようぜ~!


と思う私でもある。


ああ・・ただね~、昔の中国や韓国に女として生まれたらどうだったんだろう?・・と、ちと、それだけは自信がない。

いやいや、実のところ中国や韓国にだって、歴史上のスーパーウーマンはいたのかもしれない。
ところが、後の政府がその事実を知られることを恐れて、記録を焼き捨ててしまっただけかもしれない。

真相は闇の中だ。
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