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リスクフリーな生き方

隣家に住む90歳になるおばあちゃんが、いつもヨタヨタと歩きながら、色々なものを持ってきてくれる。
それは庭に咲く花だったり手焼きのクッキーだったり。

プレゼントを渡すと、すぐにまた帰っていく。

いったいなぜ? 
老人にありがちな、誰かと長話しをして心を慰めたいのか?と最初は思ったものの、そうではないらしい。

簡単な挨拶だけで、すぐに帰っていくのだから。
そもそも、彼女は一人暮らしではない。 連れ合いのおじいちゃんと仲良く暮らしている。

なのに、なぜ・・歩くことも困難な足で、ヨタヨタとものすごい長い時間をかけてまでやってくるのか?

手助けしようとすると、にっこり笑って、ありがとう!でも大丈夫ですから!と断られる。
ポライトな微笑の中にも、ぴしゃりとした拒絶を感じて、つい手を貸すことを諦らめざるを得ない。

ある日のこと、そのおばあちゃんが亡くなった。

なんでも庭で一人倒れたまま亡くなっていたのだそうだ。
それを発見したのは、連れ合いのおじいちゃんだった。

老夫婦の家族はすぐ近くに住んでいて、毎日様子は見に来ていたそうだ。
息子夫婦に聞いたところ、足腰が弱っているんだから、歩かないようにすることを厳しく注意していたという。
車椅子だってある。

ところが、おばあちゃんは、ちっとも言うことを聞かずに歩きたがる。
すぐに庭に出たがる。

そこで、おじいちゃんと一緒に介護施設に入居させようと考えていた矢先のことだったという。



これは、ウエストハリウッドに住む私の同僚から聞いた話だ。

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その同僚は、さらに、こんなことを言った。

「ご家族の方から話を聞いたとき、なんか、おばあちゃんの気持ちがわかるような気がしたんだよね。
おばあちゃんは自分で歩きたかったんだよ。 どんなに禁じられようが・・。」



この話を聞いて、少し前に読んだこのブログ記事を思い出した。

これは、あるお医者さんが書いた記事だ。
   ↓
人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?


この中に、老人医療の現場について書かれた部分があったので、それを引用する。

高齢者医療の現場である病院・施設は「ゼロリスク神話」による管理・支配によって高齢者の収容所になりつつある。

誰しも高齢になれば自然に足腰も衰える、転倒を予防したければ「歩くな」が一番の予防策だ。今高齢者が入院する病院では、ベッドに柵が張られていることが多い。トイレに行きたいときは看護師を呼んで車椅子移動。行動を制限された高齢者の筋力・体力は急速に落ちていく、そして寝たきりになり、排泄はおむつになる。

また、誰しも高齢になれば飲み込みが悪くなる。食べては誤嚥し、肺炎を発症する。誤嚥性肺炎を予防したければ「食べるな」が一番の予防策だ。今高齢者が入院する病院・施設は、鼻から胃袋まで管を入れられる、もしくはおなかに直接穴を開けられて胃に栄養を送る経管栄養の高齢者で大賑わいだ。

こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。



もちろん、すべての医療施設・病院がこういったところばかりではないのだろうけど・・それでも「こういった傾向のところが多い」ということなのだろう。


家族だったら、少しでも長生きして欲しいと思うことだろう。
なので、ちょっとでもリスクのあることは、絶対させたくないのだろう。

転んだら危ない
固形物を食べたら危ない

すべて命を守るためなんだから!
と。

医療側にとっても同様、リスクをすべて排除すること→これが、ゼロリスク神話ってことだ。


でも、生きているということは、

自分の足で歩き、自分で好きなものを食べることじゃないだろうか?
自由に自分の好きなことができるということじゃないだろうか?


「リスクゼロを目指す」という考え方は、私にはどうにも納得できないものだ。


こういった考え方は今や高齢者に対してばかりではない。 子供に対しても同様な気がする。


以前に、こちらのブログ記事の中でも書いたことだけど・・
   ↓
メメントモリとエベレストのテーマ「死を想う」


●日本では、遺体の映像や画像の表示はしない。

●ヒロシマの原爆資料館でも、悲惨さを感じさせる写真は一切ない

●ふだん口にする肉類はパックになってるのを買ってきて食べるだけ・・家畜が殺された形跡すらないのが当たり前。

全部、子供がトラウマになっちゃうからという理由だという。


そのベースには、今の多くの大人たちが「死は醜くて怖いもの」という認識しかなくなってしまったからなのかもしれない。

大人がただ「怖いもの・醜いもの」としか思っていないんだとしたら、それ以外の見方を子供に示すことは出来ないということだ。

だからこそ、なるべく子供には見せないように、遠ざけようとすることしか、ないのだろう。


リスキーなものは少しでも遠ざけて、親は子に財産を残そうとし、安定した良い会社に就職させようとし、娘を嫁がせるなら、いまだに少しでも良い条件の男に嫁がせることを望む人が多いのだとか(笑)

子たちもまた、それを当然と考えるようになるし、それは社会全体の価値観となっていく。

多くの人がロウリスク・ハイリターンの道を模索するようになる。(ロウリスク・ハイリターンなんて存在しないのに)

挙句に果てには、「そんなん、当たり前じゃん、昔からそうだし」・・と言われたりする。



いやいや、昔というのがいつの時代を指すのかは知らないけど、少なくともそんな考え方が定着したのは、日本では明治政府以降だ。 西洋文明が入り込んで、国家が中央集権国家として出来上がって以来のことだ。


もともとの日本人は、そうではなかったというのに。

自然と共に生きてきた日本人のメンタリティは、森羅万象に神や精霊を感じる「アニミズム」と不可分だ。
山に生きる人ならば、普段は慈母のように優しい山に感謝し、時には厳父のような荒ぶる神を畏怖しつつ、生死もそこに委ねて生きてきた。

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自分に都合のいい「ロウリスク・ハイリターン」なんて存在しないことは、彼らが一番よく知っている(笑)

彼ら親が子に残してあげられる唯一のものは、リスクヘッジ能力だけだったように思う。

リスクヘッジとは、起こりうるリスクの程度を予測して、リスクに対応できる体制を取って備えること



ピンチに陥ったとき、自力で回避するための能力と精神力を授けることだ。

もしも、それで命を落としてしまったとしても、それがどんな悲しいことであったとしても、覚悟は出来ている。

それだけ、大人たちもまた、強い精神力を持っていたということだ。


残念ながら、こういったメンタリティーは現代の日本人からは消えつつあるようだ。
逆に欧米人の方が、昨今では「自然回帰」に目覚め、自由に生きるための強いメンタリティーを子供たちに教えるようになったともいわれている。


しかしながら・・あのウイルス騒ぎになってからというもの、あらゆるリスクを避ける生き方こそが主流となってしまったかのようだ。

とくに今、「最大の問題は命を守ること」とされている。 おそらく世界中で・・・


人間にとっての「最大の問題は生命(肉体)ではない」ということは、過去からの多くの賢人たちが説いてきたことだ。
それこそ、ブッダやイエスでさえも。
*言うまでもないことだけど、もちろん、命を軽んじても構わないという類の話ではない。

しかし、今では完全にそんな考え方はスルーされてしまってるかのようだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おばあさんが急死してしまい、家に一人残されてしまったおじいさんはどうなったのだろう?

気になって同僚に聞いてみた。

「周囲の人たちは全員一致で、介護施設に入ることを勧めたのだけど、おじいさんは断固拒否したそうだよ。

俺は、死ぬまで妻と共に過ごしたこの家に住む・・・そんなに長くはかからないだろうよ。 俺ももうじき妻のもとへ逝くだろう。
でも、それまでは一人でここに住む。 歩けるうちは車椅子も使わない。 自分の足で歩く。 
だから俺のことは放っておいてくれ。 好きにさせてくれ。・・・と言ったそうだよ。」


私は、このアメリカで「自然回帰」「自由」・・のメンタリティーを垣間見た気がした。

九九、テスラの3・6・9の数字、フィボナッチの意味するところ

アメリカに住んでいる日本人のお父さん、お母さんたちの会話

「私は子供に日本の九九を覚えさせようと思うの。
こっちの学校って、Multiplication table(Times Table)なんて表を覚えさせるけど、あれがいいとは思えないんだよね~。」

「そうだよね~・・九九を丸暗記してしまえば、その方がずっと早いし、アメリカって、なんであんなものを使うのかしらね~。」


日本人はみな子供の頃、九九を丸暗記させられたと思う。
ににんがし、にさんがろく、にしはち・・ってヤツ。

ところがアメリカでは、子供たちは、こんな表を渡されてこれを覚えさせられる。

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これが、Multiplication table(Times Table)というヤツだ。


日本の場合は、九九を音から覚えていくのに対して、アメリカはこの表を目に焼き付けて覚えていくというわけだ。


そこで、子供に、「3 x 8 = ?」 という掛け算の問題を出すと、

アメリカの子は、えっと~、3だから・・・次が6で、その次が9で・・と頭の中で左から順に表を思い浮かべてたどっていって、ようやく24という答えを出す。

ところが、音で覚えちゃった日本の子は、「さんぱにじゅうし」って覚えてるから、即座に24という答えを出してしまう。

日本の子はすごい! 早い! 優秀だ~ってことになる(笑)


そんなわけで、日本で教育を受けた親たちは、Multiplicationの表なんか意味ないよ~!日本の九九の方がいい!と思う人が多いらしい。


ところが、そうとも言えないのだ・・・・。


たとえば、こちらの表を見て欲しい。

まず、五の段の35のところに注目して、そこを起点に四角形になるように、全部を色で塗りつぶしてみたとしよう。

すると、縦からでも五の段が出来てることに気がつく。こちらも四角形になるように色を塗りつぶしてみる。

それを、頭の中で切り取ってイメージすると、見事に重なる!ということに気が付く。
こうゆうの、ミラーイメージというそうだけど・・。

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さらに、12という数字だけに注目してみよう。
青でたどっていくと、ゆるーいカーブになっていく。

これが双曲線というヤツ(a × b = 12 で表わすことができる)


九九だと、2の段を覚えて、それから3の段を覚えてと、順番に覚えていくわけだけど・・

この表で視覚から覚えていったアメリカの子供たちは、上から下に行こうが左から右へ行こうがどっちでも構わない。
同じだということに気がつく。

縦横一緒だし、縦横入れ替わっても面積は同じということまでも、すでに目でみて知ることになる。

もう少し大きくなってから習う、素因数分解も双曲線も、小さなうちから、すでにイメージとしてすでに捉えられているということになる。


とくに小学生低学年頃までは、遊び心が豊富だし柔軟なイメージもできるお年頃。

その頃に、この表の数字を眺めて色を塗ったり、好きな数字を探したりしてるうちに、自然にさまざまなことに気がつくようになるというわけだ。(もちろん、アメリカ人の中には大人になっても掛け算が覚えられなくて出来ないって人もいるけどね~)


なので、一概に日本の九九だけが素晴らしい!とは言えないように思う。

逆に大人になってからの日本人の方が、数字は数字としか思えない人が多いのかもしれない。

日本人は、数字を即座に形にイメージすることが出来にくい・・とも言われている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

二コラ・テスラがこんな事を言っていたのをご存じだろうか?

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”3、6、9が宇宙と世界のシークレットを解明する鍵となっている”


そもそも数字というのは人間が発明したものではない。 

数字とは自然界、宇宙から発見した法則を表記したものだ。(表記の仕方は人間が作ったものだけどね~。)


3と6と9を形としてイメージできる人だったら、こんなものを思浮かべることが出来るんじゃないかな。

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自然界の法則としてある数字、これはまた自然界に存在するものを表している。
基本は1~9まで。


そして面白いことに、すべてが、3、6、または9を介して、存在しているということがわかる。
   ↓
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注:ただし、たとえばこの赤いマル部分、7+8=15→1+5=6としてください。(構成成分だから! これは数秘術でも同様だね。)

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1 , 2 , 4 , 5 , 7 , 8は、「人間の目に見えるすべての物質」を構成する成分なのだそうだ。

生物が細胞分裂していく過程をみていくと

まず1個が2個になる

1 → 2
2 → 4
4 → 8
8 →16
16 → 32
32 → 64



これは・・

1 → 2
2 → 4
4 → 8
8 →16 (1+6 
16 → 32(3+2 5
32 → 64(6+4=10 1


この先、どんどん続けていっても、1 , 2 , 4 , 8、7、5 という規則性に沿っていることがわかる。

私たちの体が誕生してくるのだって、1つの受精卵からこのように分裂して生まれてくるのだ。


3、6、9は出てこない。 隠された数字ということだ。

どこに隠れとるんじゃい?


では、この規則性に従った数を隣同士で足してみると、

*二桁以上の数字はそれを分けて足して一桁にすること(例:4+8=12→1+2=3

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どんどん下に向けて、足していっても、最後はに行きつく。

9から先の数は出てこないのだ。
最終的には、9になる。

9は何を意味するんだろう?

9はきゅう と読むわけだしに通ずる。(これは言葉の遊びではなくて、日本語で同じ音を持つものには意味があるものとされている)


球は玉でもあり、丸いもの。

地球

球は360度・・これまた3+6+0=9だ!


地球上で、空間は3次元で定義されている・・それは常に3分の1の観点から考えられている。

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9は3の2乗だし、3は最初の素数。

地球の緯度・経度をみても・・
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地球の緯度と経度(3 6 9)


次に4次元; 時間をみても・・・
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1日は24時間 2 + 4 = 6

1時間は60分 6 + 0 = 6

1分は60秒 6 + 0 = 6

Why did Tesla say that 3, 6, and 9 was the key to the universe?

ちなみに、英語の9(NINE)は、古語ではnigon  ヨーロッパとインド起源の言葉だそうだ。
new&nlowringを意味すると言われている。

それを数秘術では、

ナンバー9は、普遍的な愛、永遠、信仰、普遍的な霊的法則、カルマの概念、精神的啓蒙、霊的目覚め、人類への奉仕、人道主義と人道主義、ライトワークとライトワーカーであり、前向きな例、慈善活動と慈善家、慈善団体、自己犠牲、無私無欲、運命、人生の目的と魂の使命、寛大さ、より高い視点、愛、内面の強さ、広報活動、責任、直感、性格の強さ。

ナンバー9は、NO(いいえ)と言うことの学び、創造的能力、感受性、忠誠心、ジェネラリスト、裁量、輝き、問題解決、内なる知恵、自己愛、自由、人気、高い理想、寛容、謙虚さ、利他主義にも共鳴、慈善、共感、不適合、芸術の天才、広大な視点、偏心、コミュニケーション、影響、完全性、磁気、理解、許し、思いやりと共感、先見の明、義務と悟り遂行、神秘主義、楽観主義と神の知恵。



こりゃもう、最高の人格者として・・ありとあらゆるものが含められたものともいえる(笑)

あ、そうそう・・数秘術というのは、数の持つ固有のバイブレーション(振動数)から出発してるものだそうですよ。


こういったことをスピリチュアル視点で見る人々は、このように定義する人も多いようだ。

1 , 2 , 4 , 5 , 7 , 8・・・物質界・肉体
3、6・・・・スターシードの世界・意識・精神・魂
9・・・高次元 神界・死後の世界・宇宙




また、3と6は、陰陽思想の陰と陽を表すのではないか?という人もいる。
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https://www.youtube.com/watch?v=FyFANBlFe3s

統合されたものが9というわけだね。


陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となるという言葉があるけど、これを数字で表せば、

3を陽として6を陰とした場合

3+3=6
6+6=12=1+2=3



なるほどね~(笑)

両方を統合しない限り、9には到達しないってことになるんだね~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、ここでもうひとつ数の話、フィボナッチ数列をあげてみよう。

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フィボナッチというのは、レオナルド=フィボナッチ(Leonardo Fibonacci、Leonardo Pisano) 1170年頃 - 1250年頃の実在の人物で、イタリアの数学者だった人のこと。

この方は、木の枝に葉っぱが生えていく様子や、生物の成長パターンを観察しているうちに、一定の規則に従っていることを発見したのだといわれている。

そう、自然界を観察することから気がついたらしいのだ。

それが、フィボナッチ数列

0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, 233...と続く。

フォボナッチの数列は「3は一つ前の2と二つ前の1を足したもの」「5は一つ前の3と二つ前の2を足したもの」「8は一つ前の5と二つ前の3を足したもの」と言うルールで求められてゆく。


ただの数字の羅列じゃピンとこないだろうから、これを形にしてみると・・
   ↓
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植物の葉やカタツムリの殻の渦、花の形や木の枝のパターンなどの多くの自然事物はこの数列に従って成長しているのだそうだ。

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Fibonacci-spirals2.jpg
Learn About The Magic Of Fibonacci In Nature – The Math Of God

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https://minxtech.wordpress.com/2015/10/24/fibonacci-numbers-in-nature-part-1/


さらに、もっと面白いことに・・・

このフィボナッチ数列の中から、1つの数とその1つ前の数の比率を求めると、1:1.168に近い数字になる。

さらに数列が大きな数字になればばるほど、どんどん1:1.168に近似してゆく。

更に数列が大きな数字になるにつれてどんどん1:1.168に近似してゆく。

これは何か? そう、黄金比ですね~。

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ありとあらゆる自然界の中でもみられる「黄金比率」、「神の比率」ともいわれているもの。

もういちど、こちらの図をみると・・
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レオナルド・ダ・ヴィンチのアートには、これが非常に多く使用されているのは今では有名な話だ。 あの、ダ・ヴィンチコードが出版されて以来、多くの人が知ることになっのかもしれない(笑)

ダヴィンチの複雑な神比率の使用を示す線は、PhiMatrix(黄金比設計および分析ソフトウェア)を使用して作成されたもの
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https://www.goldennumber.net/art-composition-design/

もちろん、ダ・ヴィンチだけじゃなく、ミケランジェロやラファエル、ボッティチェリの絵の中にだってみることができるし・・

音楽の中にだってある。

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バルトークは作品の中に、あえて、フィボナッチ数列比率を取り込んだりしてる。
*バルトークとは、ハンガリー出身のクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家でもあり、のちにアメリカに亡命した人。


バルトークといえば・・ずーーと昔、私が20代前半だったころ、子供にピアノを教えるのに、バルトークの教則本「ミクロ・コスモス」を使って教えてたら、親御さんからクレームの嵐となった・・「なんで、バイエルを使ってくれないんですか?」と(笑)
ミクロ・コスモスって小宇宙だよ~。絶対、そっちの方がいいじゃん!と激怒した思い出がある。

バルトークに興味があれば、こちらもどうぞ。
   ↓
バルトーク論:バルトーク、理知的に思考するオカルト世界


黄金比なんて、紀元前古代ギリシャのピタゴラス学派に端を発するものだし、フィボナッチさんだって11~12世紀、彼はその当時遅れてたヨーロッパじゃなくて、先進国だったアラブ地域で学んだという。

それを後の人々が意図的に作品に取り入れていたというわけだ。

アーティストだけじゃなく今では、相場・投資の世界においてだって、フィボナッチ数列やその比率に基づく市場分析なんてことは行われている(Googleで、相場 フィボナッチ、黄金比などと検索してみればいっぱい出てくる)

たぶん、投資・相場などに詳しい方ならば、よくご存じのことだろう。


ところが、現代の人々の中には、音楽家、小説や詩歌、画家などといった職業の人は感性の人だから、理論やら数学とは無縁と思ってる人も多いらしい(笑)

私も子供の頃はそう思ってたものだけど、実際に音大に入ってみれば、基礎知識としてメチャメチャ理論を叩き込まれる。

和声法・・・音の共鳴する理論
対位法・・・複数の旋律の織りなす効果だとか幾何学的バランス
楽式法・・・曲の起承転結の構成

などといったものを、実際の楽曲分析をさせられながら、叩きこまれていくのだ。


これは、他のどのアーティスト分野であっても同様だと思う。

基本、書くことには言葉を選必要があり、描くには色を選ぶ必要がある。
さらに構図、タッチ、陰影と・・

はじめのうちは、ただの思いつき、ひらめき、感性だけで作品を作っていたとしても、多くの学びの中から、だんだん目が肥えてくるようになると、彼らは意識的に使いこなすことができるようになっていく。


優れたアーティストになればなるほど、美しい作品の中にも、ちゃーんと計算された規則的なものが潜んでいる。

言葉も、色も、音も、すべてが波動で出来ているわけだし、それは数字や数式に置き換えられる。


また、優れた数学者や物理学者ほど美を見出すことができるという。

彼らが数式をみて美しいというとき、それは形や色までもみているからだ。


3、6、9と言われて、彼らが即座にイメージするのは、こっちかもしれない。
   ↓
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感性も理論性もすべてが統合しなければ完成度は低い。

まさに、「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」ということか。

9には近づけないということか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

子供って・・・
Boy Showing Two By Hand

小さいときは目の前にあるお菓子の数を数えることくらいしかできないわけだけど・・

それがはじめて、もっと大きな意味を持つものになるのは、九九を覚える頃なのだろう。


数がただのお菓子の数ではなくなって、「数字が形になったり曲線になったりもできること」をイマジネーションから発見し、さらに論理性や規則性を秘めた新たな世界へと広がっていく第一歩なのかもしれない。

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まあ、ひとことで言ってしまえば・・大人も子供も間違ったお勉強をしてはいけないってことだ(笑)

講談を聴いてる

私が一人暮らしで近所に友達もいないと知ると、「寂しくないの? 毎日退屈でしょ!何やって時間つぶしてるの?」と矢継ぎ早に聞かれたりする。

「 別にぜんぜん寂しくないし、むしろ一人でも楽しんでるよ。」といっても・・ムリして強がり言ってるとしか思われてない様子。


なんでみんなこんなふうに思うのかなあ?
逆に、なんで私は一人でも楽しいのかなあ?


それはたぶん、私にはいつも何か夢中になるものがあって、現在の「マイブーム」というものが常にあるから、かもしれない。

ある音楽だったり、映画だったり、コミック、小説だったりと、なにかしかがその都度あって、さらに年々ハマるものが増えていってる気がする。

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先月頃からまたもハマってるのは、「講談」だ。


最初に講談に目覚めたのは2年前頃だったかな? 

あるきっかけからすっかり講談ファンになってしまったのだ。

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私は、もともと講談どころか落語も歌舞伎も・・こういった日本古来の芸能には、まったくといっていいほど興味がなかった。

講談なんて、いったい何語でしゃべってんのよ!ってカンジだったし・・落語は八っつぁん、熊さん、ご隠居さんという定番の登場人物で、こいつらアホ? どこが面白いんかい?ってカンジだったし・・歌舞伎はTVで見ただけだけど、なんだかな~ってカンジだった。
唯一、能舞台で舞う姿は、おお!!となったものが、いくつかあったものの・・・まあ、その程度だった。


なのに、なんでいきなり講談ファンになったかというと・・出会いは或る日突然やってくる(笑)



ある日のこと、BGMで「怪談シリーズの朗読」を流しながら寝ようとしていたときのこと。

いつもだったら、真剣に聞きいることもなく、すぐに寝落ちしちゃうのだけど、そのとき、たまたま流れてきた怪談話が凄かった


語り口があまりにも見事、あまりにも面白くて引き込まれてしまって、目がギンギンに冴えてしまった。


思わず起き上がって、これ、誰が朗読してるんよ!

と、チェックしてみたら、それは、神田松之丞さんという講談師((講釈師)だった。

上にアップした写真の人。


そりゃ、うまいはずだよ~! プロの講談師さんなんだから!


そのときにまた、これはただの怪談話じゃなくって、れっきとした「講談の演目」だったということも知る。

へええ~。 講談ってこんなに面白かったんだ~!と、そこではじめて開眼したというわけ(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなわけで、今日は講談の話でもしようかと思う。

もしも、以前の私のように・・け!講談なんてどーでもいいやんと思う人は、読まずにスルーしてくださいませ(笑)


さて、講談というヤツは、かなり昔からあるんだよね~。

江戸時代の大道芸のひとつ、辻講釈(つじこうしゃく)からはじまって、宝永年間(1704~1711年(徳川綱吉さんの時代)には小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれてたそうだ。

昔は講談じゃなくて、講釈と呼ばれてたらしい。

いわゆる寄席芸能の1つだね。

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今と比べりゃ、江戸時代頃の娯楽は少ないだろうから、庶民の数少ない楽しみだったのだろう。


そんな庶民のお気に入りの演目は・・

代表的演目の1つは、赤穂義士伝(俗にいう忠臣蔵)。 

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https://www.news24.jp/articles/2017/12/14/07380512.html

あの浅野内匠頭の松の廊下の刃傷から大石内蔵之助四十七士の吉良邸討入りから切腹に至るまでのお話。


そんなん、昔から大河ドラマとかでもやってたし~。 飽き飽きだわい!と思ってたのだが、

ところが、なかなかどうして・・。 四十七士の一人ひとりを主役にした物語があり、さらに、彼らを裏で支えた人たちの物語まである。

いったい全部でいくつあるんよ!と思うくらい、数限りない物語があるのだ。 


しかも、それぞれの生き様がカッコいい!(まあ、そうゆうふうに作られてるんだろうけどね)


そんなわけで、赤穗義士伝(忠臣蔵)は、江戸時代から、かなりの人気演目になっていたのだろう。


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https://intojapanwaraku.com/culture/9932/


そして、夏といえば、怪談話・・・牡丹灯籠とか四谷怪談は有名だけど、他にもまだまだいっぱいあるらしい。


講釈師を詠んだ川柳に、「夏は義士、冬はお化けで飯を食い」というのがあるくらい、この2つが定番中の定番というわけだ。

それだけ、昔の人たちは義士伝と怪談話が大好きだったということだろう。


私がたまたま寝ながら耳にしたのは、こういった怪談話の中の1つだったのだ。

それからというもの、さっそく神田松之丞さんの講談を聞き始め、そのうち、同じ演目があれば、彼のお師匠さんの3代目神田松鯉(かんだしょうり)さんのを見つけて、それも聞いてみる。

ぜんぜん持ち味が違うけど、こりゃ、どっちも面白いわ~、じゃあ、もっと他の人のと比べてみよう!となって・・

そのうち話の中身が気になりだしてしまって、史実とどう違うのかを比べてみようとか・・そっちも調べ出す。

もう、どうにも止まらない(笑)

好きなお菓子にハマってしまうと、それを飽きるまで毎日食べ続けちゃう人がいるけど、まさに私もそれと同じだろうな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

色々聞き始めた中で、最初に私のお気に入りになったのは、「徳利の別れ」という演目だった。

いかにも日本的な情感ある話なのだ。

これは四十七士の一人、赤垣源蔵さんのお話。

赤穂浪士四十七士の1人だった「赤垣源蔵」が、討ち入り前夜に兄に別れを言うために訪ねる。 しかし、なんと兄上は不在。

そこで源蔵は、兄の羽織が掛かっているのを見ながら、それと共に酒を酌み交わす。
外はしんしんとふる雪

ひっそりと兄の羽織と向かい合い、ただ静かに酒を飲む。

その情景がなんとも美しい。
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まるで雪の降る音が聞こえてくるかのようだった。

いや~、これはいい話だったなあ~と感動して満喫して、そこで終わればいいのだけど・・
んじゃ、史実も調べようと「赤垣源蔵」さんについて調べはじめる(←私の悪い癖だ。)

すると・・

赤垣源蔵には兄がいない。
源蔵さん、下戸でお酒飲まない! つーか、飲めない
そもそも名前が違う! 本当の名前は、赤埴(あかばね)源蔵
で、討ち入り前夜に雪なんて降ってない!


おい!!


「講釈師見て来たような嘘を言う」という川柳がある。

いちおう、史実に基づいているものの脚色は自由 : 感動させられたもん勝ちという世界らしい(笑)


・・・・・・・・・・・・・・・

次に聞いたのは、「鼓が滝」という演目。

これは若き日の西行さんの話だ。

西行さんといえば、あの平清盛さんと一緒に「北面の武士」(宮中の護衛隊エリート部署)にいた人だ。

清盛さんよりもイケメンで家柄良し、今でいうところの、ハイスペックの男。

それが、思うところあって脱サラ、歌人となるべく放浪の旅に出てしまった人だ。

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ある日、鼓が滝という滝の名所を訪れ、西行はそこで歌を詠む。

『伝え聞く 鼓が滝に来てみれば 沢辺に咲きし タンポポの花』

我ながら満足の出来栄え。

さて、満足した西行さん、そこで今夜の宿を探さなきゃならないのだけど、これが山奥のため、なかなかみつからない。

と思ってたら、いきなり、一軒のあばら家をみつけて今夜の宿を問う。

住人は爺さんと婆さん、そして孫娘の3人住まいだった。


夕食が済んだ頃、お爺さんに「鼓が滝で詠んだという歌をぜひ聞かせてくだされ。」と言われて、

こんな田舎のジジイには歌の良さはわからないだろうと思いながらも、

『伝え聞く 鼓が滝に来てみれば 沢辺に咲きし タンポポの花』と披露する。

爺さんが言う。

「鼓は音を扱うものでございます。 さすれば「伝え聞く」より、『音に聞く鼓が滝に来てみれば、…』とされた方がよろしいかと。
この方が調べが高うございます。


くそ!こんなシロウトの田舎ジジイに!と思ったものの、たしかに・・おっしゃる通り! はるかに格調高い歌になる。
この方がいい!と認めざるを得ない。


すると今度は婆さんが、「鼓は打つものでございますれば、『来てみれば』より『音に聞く鼓が滝を打ちみれば…』のほうが、調べが高うございまする。」と直される。


最後は娘までしゃしゃり出てきて、「鼓は川を表すもの、さすれば『沢辺に』ではなく『川辺に』とされた方が、調べが高うございまする。」と直されてしまった。


「音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花」

上の句も中の句も下の句も直されてしまって・・もう原型をとどめてない!

そこで西行さん、はっと気がつくと、自分は木の根元で寝ていて、どこにもあばら家もなければ住人たちもいない。

夢?


ああ、あれは・・和歌三神が降りてきて、慢心していた私に歌の道を教えてくれたに違いない。

和歌三神というのを調べたところ、
和歌の守護神で、住吉明神、人丸明神、玉津島明神の三神のことらしい。
住吉明神は和歌で託宣を行ったという神様、実際に記録や伝承が多く残ってるらしい。
人丸明神は柿本人麿呂のことで、歌聖と称されるほどの歌人。
玉津島明神は衣通姫尊(そとおりひめのみこと)のことで、いわずとしれた和歌の名手。


*江戸時代には「タンポポ」を「ツヅミグサ(鼓草)」と言ったことから、鼓を叩く音を形容した「タン」「ポポ」という擬音語を語源とする説が通説となっている


和歌ってこうゆうふうに言葉を選んでいくものなんだ~。

日本語は言葉で状態を表すよりも、心情を表すとき生きてくるのかもしれない。 それが言葉のセンスになっていくのか~、なーんてことを思った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年になってから聞いたのは、「中村仲蔵」という演目

これは、江戸時代中期の頃の実在の歌舞伎役者、中村仲蔵さんの物語。

これも中身を紹介させて頂こう。・・私の好きな話だし~。


その前に、まず歌舞伎の世界について、ちょこっと説明しておく必要がある。

当時の歌舞伎の世界には序列があったそうだ。

一番下から、稲荷町(いなりまち)、中通り(ちゅうどおり)、相中(あいちゅう)、上分(かみぶん)、名題下(なだいした)、そして一番上が名題

下っ端の「稲荷町」のうちはセリフがつかない役。 「中通り」になって、ようやくひと言だけセリフがつく。

役者たちは、そりゃもう、少しでも上を目指して精進を重ねていくんだけど、一番上の「名題」まで上がれる者は、「生まれの良いもの」だけだったという。

生まれの悪いものは、どんなに才能があろうとも、「血がないから」という理由で却下されてしまう世界だったのだ。

今でこそ、こんな階級制度はないらしいけど、「梨園(りえん)の御曹司でなければ出世できない」というのも聞いたことがあるから、いまだに封建的な門閥社会なのかもしれないなあ。

仲蔵さんは、「血はない」けど、持って生まれた才能があり、しかも役者が好きでたまらないという人なのだ。

その才能を、四代目市川團十郎に認められて、どんどん出世していく。


29歳のときには、名題下(なだいした)にまで上り詰めていて、あと残るは名題のみ。
だけど、「血の無い役者が名題になることは出来ない」

ところが、ある日のこと、市川團十郎が皆を集め「中村仲蔵を名題にさせてやってくれないか?」と言いだす。

当然、全員反対。


理由は「稲荷町出身の血のない役者が名代になるなんてみっともない。 前例がない!」だった。

「では私の顔を立てて1度名題にしてやってくれ。 ただし1度でもしくじりがあれば引き下ろすという条件で構わん。」と團十郎さんがいう。

歌舞伎の神様的存在に、ここまで言われてしまっては・・もうだれも反対できない。


こうやって前代未聞の「血の無い」名題が誕生した。

「血がある」役者の名代であれば、1度のしくじりぐらい、まあ、若いんだしこれも勉強のうちですよ~と大目に見てもらえるのだけど、仲蔵のように「血の無い」役者は、1度失敗すれば、そこで終わり。

すっげ~、不公平!


その翌年のこと、仲蔵に割り振られた役は、「工藤 祐経(くどう すけつね)」(源頼朝の家来だった人)だった。

これは、とてもじゃないけど、名題になって1年目2年目の役者がこなるような役ではないのだ。
超難しい役。
寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)より

もちろん、仲蔵に失敗させんがために、わざとこんな難しい役を与えたことは明白。


ところが、彼は見事にやり遂げてしまう。

ただやりこなすだけでなく、独自の工夫まで入れて演じきったという。

ますます人気は出る。

ますます役者連中からは妬まれ恨まれる。


そんな折だった。
またも次の演目が決まり、配役が言い渡されることになる。

今度は人気の「仮名手本忠臣蔵」だ。

そして仲蔵の役どころは? 

な、なんと五段目の芝居、斧定九郎(おのさだくろう)役。

あ、あり得ん!!

この五段目の芝居は、別名、「弁当幕」とよばれていたという。

忠臣蔵の三段目四段目というのは見せ場が多い芝居だし、また六段目も大いに盛り上がる場面だから、面白くない五段目あたりで観客たちは弁当を食べてのんびり、まったりとしながら、次の段に備えてたってわけ。

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で、なんでそんなに五段目がつまらないのか?というと、この幕は斧定九郎という男が主役。

こいつがまた、ぜーんぜん魅力ゼロ。


元は家老のせがれだった男なんだけど、すっかり無頼漢になり下がり、街道で旅人の懐を狙って悪逆非道の山賊に成り下がってる。  そいつが悪行を働いて、運悪く鉄砲玉に当たって死んじゃうってだけの話。

しかも、この男のいでたちときたら、どてらみたいなのを着たムサイ姿、髭ボーボー、顔は酒焼けした赤ら顔。

田舎山賊そのもののワルときたら・・こんな男が死んだところで、別にどーってこともないし盛り上がりようもない。


そんなわけで、五段目の斧定九郎の役は、格付けからいえば真ん中あたりの「相中(あいちゅう)」が演じるような役どころ。

トップクラスの名題が演じるような役ではない。

しかも、仲蔵に割り振られた役は、この一役のみ・・・どんだけ、仲蔵さんて嫌われてたんよ!


この役を受ければ、彼のプライドをずたずたにできる! または、こんな役やれるか!と彼が蹴った時点で、降格にできる・・という企みが見え見え。

人々の妬み・嫉みってのはいつの時代でも同じなんだなあ~。


でも・・仲蔵さんはこの役を受けたのだ。

それなら、自分にしか出来ない斧定九郎を演じてやる!と、ここで決心する。


とはいうものの、独自のアイデアなんて、そうそう浮かんでくるもんじゃない!


苦しんで苦しんで神頼みまでして、ようやく閃いた姿がこれ。
   ↓
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http://randokku.blog.fc2.com/blog-date-201604-9.html

色白で黒羽二重の着流しを素肌に着て、白献上の帯、朱鞘の大小を落とし差しにして・・雨の中破れ傘を持ち、髪からも水が滴っている。

どこか気品があって粋、それでいて今は落ちぶれた大悪党。

胴巻きを咥えた姿まで色気と哀愁がある。

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最後、撃たれて死ぬときには、口から流れた血が真っ白な足元まですうっと糸を引くように流れていく。
(血が流れるような演出は、今までなかったそうだ)

観客は、弁当を食べる手も止まったまま声も出ない。


歌舞伎というもの、名場面名演技をみたとき、観客から「音羽屋!」「成田屋!」なーんて声がかかる。

ところがまったく声がかからない。


仲蔵さん、ああ、観客には認められなかったんだ~、ダメだったのか~と思ってしまったのだが・・

あまりにも衝撃的な感動を受けたとき、人は声が出ないものなのだ。


芝居の後、打ちひしがれて外に出た仲蔵は小屋をそっと抜け出して、町をとぼとぼと歩いていると、こんな言葉を耳にする。

「 今度の義士伝は凄かったぞ! 今までこんなのを見たことない!」

「へえ、何段目が一番良かったんだい?」

「五段目だ。」

「おいおい!そりゃ弁当幕だろ~が!」

「ところがよ、仲蔵がすっかり変えちまったんだ!」

「ええ? ほんとかよ! それじゃ俺も明日見に行こう!」


通行人のそんな言葉を耳にして、仲蔵は初めて自分が成功したことを知ったのだった。

めでたし、めでたし。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


初代中村仲蔵によって、その後の斧定九郎が変わったというのは事実だ。

これは史実にかなり忠実らしい(←講談ウソつかないこともあるんだ?)


今ではこっちの斧定九郎の方が定番になっちゃってるようだ。
    ↓
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私は、これを神田松之丞さんの講談で聞き、




さらに、この演目がもともとは落語だったと知ると・・三遊亭圓生さんの落語でも聞き、




落語でも関東、関西とスタイルが違うということを知ると、さまざまな人のを聞き比べた。


そのうち、実際に歌舞伎でも見てみたいなあと思い立ったけど、さすがにアメリカにいると歌舞伎座は遠すぎる!


こうやって1つのスイッチが入ると、どんどん、どんどん広がって止まらなくなっていく。

まあ、そんなわけで退屈を感じるどころか日々が楽しくあっという間に過ぎていくというのが私の日常だ(笑)

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http://kabuki.kamiya.boo.jp/?eid=87


中村仲蔵さん

理不尽な嫌がらせで回り中敵だらけ・・こんな状況にいた仲蔵さん、


並みの人間だったら、

なんで私ばっかりがこんな目に合わなきゃいけないん!と落ち込むか世を拗ねてしまうか、または、怒りに任せてテーブルひっくり返して大暴れしちゃうとか(笑)

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でも・・この人のすごいところは、
よーし! それなら受けてたってやろうじゃないか! 俺にしか出来ない方法でやってやる!とすぐになるところ。

「怒り」をポジティブパワーに変換しちゃうとこだ。


ここらへんが「並みの人間」ではなかったんだろうなあ、と思う。


いくら類まれな才能に恵まれていようとも、精神力が並みだったら・・おそらくそこで潰されて終わったことだろう。

こうゆうときこそ、むしろ「才能よりも精神力の強さ」がものいうのかもしれない。


じゃあ、人からひどい仕打ちを受けても、ひたすらじっと我慢する?・・・これは、どーだろ?

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これまた「並みの人」のすること・・いやいや、辛い目に合いながら「じっと我慢だけするだけ」だったら、こりゃ、ストレス溜め込んで、うつ病コースかも。


今まで「怒り」「絶望」「悲嘆」などといったネガティブ感情を持つのは悪いことと思ってたけど、決して悪いことじゃないんだな~。

いかにそれを炸裂させてポジティブパワーに変換させられるか!にあるのだろう。


ネガティブパワーからポジティブへと変換させたパワーは、ものすごく大きなエネルギーになりそうだ。

今までの常識を塗り替えてしまうような・・不可能を可能に変えてしまうような・・。

それをやってのけちゃうのが、「真に強くてカッコいい人」なんだよなあ、って思う。

私は中村仲蔵さんから、そんなことを学ばされた気がする。


そういえば、神田松之丞さんも、今までの講談界をガラっと変えてしまった人かもしれない。

あ、そうそう、今年の2月に真打に昇進して、今は六代目 神田 伯山(ろくだいめ かんだ はくざん)さんになったんだったね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後に、私が最近聴いた「大岡政談」からの話を紹介しようと思う。
*江戸時代のシリーズもの読み物で、名奉行と知れた大岡越前守忠相の事件簿。


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大岡越前というのは、ちょっと昔の時代劇ドラマなんかでもよくあったと思う。

大岡越前さんは、頭脳明晰で人柄は温厚な名奉行だったそうだけど、それでも・・この3人だけは八つ裂きにしても余りあるとまで言わせしめた大悪党がいたそうだ。
徳川天一坊、村井長庵、そして畔倉重四郎


その一人、畔倉重四郎(あぜくらじゅうしろう)の悪党人生を描いたものだ。

この畦倉という男、ルックス良し品もあり優しく話術が巧みで、どこからみても多くの人々に好かれる男。

しかし、その仮面の下には・・気に入らないヤツはかたっぱしから殺してしまう残忍性、罪は人になすりつけ自分は絶対に捕まらないという狡猾さが潜んでいる。

現代でいうところの「サイコパス」の典型。
サイコパス男の人生を描いた物語。

対するもう一人の主役が生まれつきのメクラの男、城富(じょうとみ)という。

城富というのは、校倉重四郎に罪をなすりつけられて処刑されてしまった商家の息子なんだけど、彼は生まれつきのメクラ。

メクラでありながら、決して真犯人探しを諦めない。 父親の真実を訴えて、大岡越前にまで食って掛かる熱いものを持ってる。

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この話はこの二人のドラマ展開が主で、大岡越前の出番はほとんどないようなものだけど・・なんだか・・現代に通じるリアリティーを感じるのだ。


江戸時代にも現代と変わらないようなサイコパスがいて、お上には絶対逆らえないような時代でありながら、しかも底辺の弱者でありながらも、真実追及を決して諦めない男もいる。


そうゆうところが江戸庶民のハートをがっちり掴んだのかもしれない。


ただし、これは創作! 

大岡政談てのが、そもそも90パーセント以上が作り物。(←やっぱり講談のウソ)

ウソ話だろうがなんだろうが、こうゆう話をこの時代に書いた人がいて、多くの人々がその話に夢中になったということ。

現実ではウソ話であっても、イメージは人々にとって本物なのかもしれないね。



ちょっと長い話で全19話あるけど、よかったら聴いてみて。
   ↓
【#01】畔倉重四郎「悪事の馴れ初め」(1席目)【全19席】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

窓開ければカリフォルニア、ヤシの木、ジャカランタの並木道だけど、窓を閉めれば、雪の音、破れ傘に雨の匂い、鼓の音が聞こえてくる。

今、私はそんな日々を送ってる

心理学的スピリチュアル的なソーシャルディスタンスとパーソナルスペース

日本にいる母は、3月末に入院・手術をした。

予定では1週間~10日の入院だったらしいが、経過が良かったせいか5日で退院したそうだ。

入院の際、病院側から「この時期なので、付き添いやお見舞いは一切来ないように断ってください。」と言われていたらしい。

馴染みのない病院の手術で、退院までずっと一人っきりって・・心細いだろうなあと心配したんだけど、母は至って平気。

「あはは。 子供じゃあるまいし~。」と逆に笑われた。

まあ、この人は、そんなことくらい平気だろうなあ(笑)


ところが、そうはいかない人たちだって大勢いる。

養護施設に入居してる老人たちが、子供や孫たちの面会が出来なくなったとたん、多くの方が亡くなったという話を聞かされた。
(病状が急に重くなって亡くなった人、または自殺)


また、刑務所でも、家族との面会が許可されなくなったことで、暴動が起こるという事件もあった。


そう、これらは、もちろん、ソーシャルディスタンスがすべての原因になっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっと視点を変えて、ソーシャルディスタンスをスピリチュアル面から考えてみた。


私自身は、他人が自分の半径1m以内に侵入してくると、違和感?のようなものを感じる。

車じゃないけど、接近し過ぎるとアラームが点灯して、さらに接近してしまうとアラーム音が鳴り出すようなカンジかな?

別に危険とまでは思ってないんだけど、ちょっとした不快感みたいなものが違和感となって感じてしまうのかもしれない。

こうゆうのって、パーソナルスペース(Peasonal space)とも呼ばれるようだ。
心理的な縄張りみたいなものなのだろう。

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心理学的にいうと、たとえ無自覚であっても誰でもパーソナルスペースを持っているらしく、レストランなどでもテーブルの配置はちゃんと計算してセッティングするそうだ。

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そういえば・・電車に乗るとき、車両がガラガラに空いてたとしたら、みんな他の乗客からは離れたところに座ると思う。

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http://domonoirasuto.blog.fc2.com/blog-entry-4.html?sp


それがもしも、くっつくように隣に座ってくる人がいたとしたら・・

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私ならば、すぐに席をたって遠くに移る。

ところが、このサイトによると・・
空いてる電車で「異様に近い人」は何なのか?「 周囲に意見を聞いてみた」より

回答数 11人中、7名が「気にならない」もしくは「気にはなるが嫌ではない」と回答。


嫌だ!と感じる人の理由は、貴重品が狙われてるかも、とか、若い女の子の場合だったら誘惑?なんて心配をするらしいけど・・
そういったことじゃないのだ!


ただ単に、パースナルスペースへ侵入されることで、ぞわぞわと嫌なカンジなのだ。

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こういったとこ、日本人て不思議だよなって思う。(←自分だって日本人のくせに)

日本人って知らない人と接近しても、あんまり気にならないのかなあ?


ん~、そういえば・・日本て、どこでも人がメチャメチャ多くて、満員列車も並ぶの当たり前だもんね~。

昔、自分が日本に住んでたことを思い出してみると、やっぱり、今よりはパーソナルスペースなんて気にもしなかったように思う。

他人と密着することに、知らず知らず慣らされちゃってた気がする。

今の私だったら、絶対ムリ!だけどね。


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ところが、人って面白いもので、それが親しい人になればなるほど、逆に近づきたいって思う。

たとえば、恋人どうしだったら、むしろ息がかかるほどそばにいて手を握りたいって思うときもあるだろう。

それは、大きな安心感が得られるからだ。


そういった感覚は、人間だけじゃなく他の動物たちも同じらしい。

初めのうち、近すぎると不安にさせられるけど・・
   ↓
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親しくなっちゃうと・・
   ↓
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こうゆうとこ、人も動物も同じなんだよな~って思う。


「たとえ遠くにいても心さえ通じ合ってれば」とも言われたりするけれど、やっぱり近くで体感からくる「安心感」は大きい。

こういった体感からくる「安心感」と「暖かさ」を味わった経験のない人に、遠くで思ってくれてる人を感じろといっても、そりゃムリな話だろう。


そう思うと、施設にいる老人たちが楽しみにしていた子供や孫と面会が出来なくなってしまったことや、刑務所の囚人たちが、家族や恋人と会う楽しみが奪われてしまったということは、ものすごく大きなことなんだということを実感させられる。

閉ざされた環境下にいる人たちにとっては、ほとんど唯一といっていいほどの「安心感」であり「暖かさ」だったのだから。



手を握りあってるだけで、じんわりと相手の暖かさが伝わってくる。

たぶんこれって、気の交換なんだろうなあって思う。



そういえば私、若い頃に、いきなり手を握ろうとしてきた男がいて、その男をいきなり突き飛ばしたことがあったなあ。

なにすんねん!
どついたるねん!


「え~? なんで~?
手ぐらいいいじゃないか。。。別にキスしようとしたわけじゃないんだしさ~。」


「手を触られることが一番嫌なんだよ!
ムリやりキスされるよりも、ずっ~と嫌なんだよ!」

「え? キスの方がいいってか? んじゃ!」
 と迫る男に、「やれるもんならやってみい!」と(笑)

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どうやら若い頃の私には、ヒョウパワーを味方につけた大阪のおばちゃんが入ってたのかもしれない。


これは私の懐かしい昔話ではあるんだけど・・手を握られることが一番イヤ!というのを、このとき、はじめて自分で気がついたのだ。

同様に私は、好きな人とハグするのは大好きだけど、そうじゃない人とはしない。

2-3度会っただけで、これは親愛の挨拶なんだから!と言われても、やなこった!
必ず、「私は日本人で、日本ではハグの習慣がないので。」とお断りすることにしてる(笑)



ずっと後になって、気功の先生から、「人間が一番気を発してる部分は手のひら」というのを聞いて、すごく納得できたのだ。

だから、好きな人とは手を握りあっていたいわけだし、イヤなヤツの手には絶対触れたくなかったのだと。

Hold hands


また、ここで日本のことを考えたのだけど・・
日本では親密な人達とでさえ、ハグする習慣なんてないくせに(←最近の若い人たちはそうでもないらしいが。)
満員電車とか行列とかで、知らない人たちとくっつきあっても、気にならなくなってしまってるのかなあ?

日本といっても、混雑してるのは都市部に限られてるわけだろうし、田舎だったらまた違うのかもしれないけど。



私はずっと混雑真っただ中の東京だった。 その当時の私はどうだったんだろう?

やっぱり・・さほど不快感はなかったかも。(混んでんだから仕方ないよ。 お互い様なんだしってカンジだったんだと思う。)


それでも、もう少し思い返してみると、常にぐっと下っ腹当たりに力を入れてたように思う。

無意識のうちに自分の気を高める防御態勢をとっていたのかもしれない。

まさに「丹田に力を込めて」をやってたのかなあ。

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https://ameblo.jp/n-krt-no1/entry-12290993577.html

ずっとそんなことしてたら、そりゃ、疲れるわ~!

今想えばだけど・・たしかに東京暮らしはメチャメチャ疲れてたように思う。

だからこそ、家に戻れば、好きな人や好きなペットから大いに癒しを得てたようにも思う。


「心許せる存在があること」
「待っていてくれる人がいるということ」


本当に大切なことなんだなあ。


人を一番弱くしてしまうのは「孤独感」だそうだ。

たしか、イギリスだったかでは、ロックダウンを開始してからというもの自殺者が5倍にも跳ね上がったという。
おそらく、どこの国でも似たようなものだろう。。。

医学面でも、孤独と孤立は、脳卒中、癌、認知症、糖尿病といったあるゆる病気をも悪化させるとことは知られている。



そうゆう私も、今は孤独な一人暮らしなんだけど(ネコはいるよ)、ちっとも寂しいと感じないのは、おそらく過去からの「安心感・暖かさ」の蓄積があるからかもしれない・・な~んて思う。

それは、さっと引き出しを開ければ、すっと取り出せるようなもので、「思い出」なんて漠然としたものよりも、ずっとパワフルで色鮮やかに音や匂いまでもついているのだ。

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そして、いつでも幸せな気分を蘇らせることができる。

そのおかげで、私は一人でも平気なのかもしれない・・な~んて思う。


過去に一度でも「心許せる存在を持った」ということは、そのときの幸せな思いが消えることなく、いつでもイメージ化視覚化ができるようになるのかもしれない。

いずれにしても、ありがたいことだ!


あ、もちろん言うまでもないことだけど、これは過去によく「ありがちな恋愛」とかの話をしてるわけじゃないから(笑)

スピリチュアルでも言われるように、恋(小我)ではなく、愛(大我)、を本当に感じたことがなければ蓄積はされない気がする。 
ただの恋の思い出なんてものなら、いつか淡く消えていくものでしかないように思う。



おいおい! それならアンタは、そんなに過去に本物の愛の経験が多いんかい!って突っ込まれそうだけど・・
そりゃないな~(笑) 私は人間よりも、イヌ・ネコたちからの愛をいっぱい受け取ってる気がする。

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私の母が孤独な老人一人暮らしなのに、毎日楽しく過ごせるのはなぜなんだろう?
たった一人で入院・手術を受けて、一人でタクシーで帰ってきちゃう逞しさは、どっから来るんだろう?

たぶん・・生前の父のおかげで、彼女の引き出しはいつもいっぱいなのか?
それとも・・・単に、超がつくほどの現実主義の楽天家なだけなのか?(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ソーシャルディスタンス、パーソナルスペース・・さまざまなことを考えさせられる。

無理やり押し付けられたソーシャルディスタンスは不快なものだけど・・

人との間に少し距離を保つことで、生まれてくる節度や美意識もあるし、だからこそ、こんどは逆にパーソナルスペースに入れたものを、より愛しく感じられるものかもしれない。


どっちも感じなくなってしまうような・・そんなふうに心を麻痺させてしまってはいけないなあ・・とつくづく思う。

三密って?

笑っちゃう話なんだけど・・

ある日本人が、「三密は大事だよね!」って言ってるのを聞いて・・・

すごいなあ~、この人はちゃんと空海の教えを実践してるんだ~と思って聞いていた。

ところが、よく聞いてみると、ぜんぜん違ってた!



三密というのは、コロナウイルスを避けるための方法なんだって?

密接、密集・・・もうひとつ、なんとか言ってたな~。
とにかく、その3つを避けろ!ってことなんだってね!(←日本のことがすでにわかってない)


いったい、誰が最初にそんな言葉使い始めたんだよ!・・・紛らわしい!

今日本では、ソーシャルディスタンス・消毒の徹底・三密の厳守なのだそうだ。。。


ったくもう!!!
私の尊敬する空海さんの言葉を、そんなレベルで軽々しく使ってほしくないわい!・・と密かに怒り狂ってる私。(←ブログで公言した時点で、すでに「密か」じゃないだろーが。)



まあ、なにはともあれ・・「三密」って言葉が流行ってしまってるなら、今日は本家本元の「三密」について書こうと思う。

もっとも空海ファンの私としては、空海さん関連の記事は何度もアップしてるんだけど・・・今回は実践法を中心にしてみよう。



真言密教では、生命は「身・口・意」で構成されていると考える。


身密(しんみつ)・・・体
口密(くみつ)・・・言葉
意密(いみつ)・・・意識、考え



それならば、この3つの部分を昇華してアセンションしましょ!というのが、空海さんの説くところ。


ところが・・

仏教と一括りにしても、それぞれ宗派によって考え方も違うのだ。
中には、この3つこそが「煩悩」であり、すべての煩悩を絶たなければいけない!と教える宗派もある。
一般的な仏教のイメージでは、こっちの方ががメジャーになってるのかも?

なぜかって?

体は楽したい!美味しいもの食べたい!ステキな異性と交わりたい!って思うし・・
口は、悪口雑言、自慢話や噂話
意識は、誰も見てなきゃズルしようとする心だって潜んでる

こういったものは、すべて煩悩であって、三業と呼ばれる「悪いこと」というのが、従来の仏教の教え。


ところが、空海さんは、これを排除せよ!とは教えていない。
むしろ、まずは「受け入れよ!」という。


こういった煩悩の中にすら、何らかの真理が隠されているという考え方。
ならば、これを正しく用いることこそが、悟りを開く道だと教えている。


そこで、真言宗のトレーニング方法(三密加持)というのがあって、

身密では、本尊を表す印を手で結んだり・・

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口密では、真言を唱えたり・・・

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意密では、瞑想しならがらのイメージトレーニング

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従来の仏教では、すべての煩悩を断ち切って、死んだ後は仏となって成仏できるという教えなのに対し・・

空海さんの教えでは、すでに一人ひとりの中に、もともと仏(大日如来)が存在している。 生きてる間に、仏(大日如来)の存在を感じて一体化して、アセンション~しようよ!というのが教え。


即身成仏(死後じゃなくって生きてる間に仏となること)なんてのは、凡人には到底達成できないと思われがちだけど・・

空海さんによれば、すべての人々はみな大日如来の一部なのだから、その本質さえ見えてくれば、大日如来と一体となれる、という。 しかも、生きてる間に実践しなきゃ~という考え方なのだ。


あ、そうそう・・・
ひとこと、付け加えておくけど・・・大日如来というのは、1つの仏様と思ってはいけない。

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https://butsuzolink.com/dainichi-nyorai/


大日如来は宇宙そのものであり、大日如来の「大日」は「偉大な太陽」という意味でもある。



さて、いかがでしょう?

避ける三密じゃなくって、この「三密」を日々実践してみてはいかがでしょう?



だからといって、真言宗のお寺に入れ!というわけじゃないし~(笑)
日々、印を結ぶ練習したり(安倍晴明さんじゃあるまいし~)、真言を覚えて唱えよ!なんてわけじゃない。(←別にやってもいいけど)
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適度に心地よいほどに体を動かし、言葉を意識して大切に使うこと(言葉には言霊が宿るからね~)
そして、自分の心の揺れ動きを観察し、日々気づきを得ることを心がければいいんじゃないかな?

それが、空海さんの教えを実践することだと思う。



コロナウイルスの「三密」(←いったい誰が言いだしたんだよ!)を日々心掛けるのも結構だけど・・

ちゃんと向き合い、自分の頭で考え結論を出したことですか~?・・と私は問いたい!


もしも、誰かが言ったことだけを鵜呑みにして実践してるなら、空海さんの「三密加持」と、どんどんかけ離れたとこに行っちゃいそうだ。
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☆ホピ族は、まさに、スピリチュアルな生き方を貫いてきた人々。
銀月のWEB、「ホピ族の話」をまずは、じっくり、ご覧ください。


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