日本から送って頂いた本
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この作者、ハルノ宵子さんは漫画家でエッセイスト
お父様は思想家で詩人の吉本隆明さん
吉本家で両親の看病をしながら、ご自身も癌の手術という状況になりながら
病気の猫&野良猫たちを抱えた奮闘記それが
さらりと書かれていて、
主役は猫たちでありながら、
読み進めるうちに、
ネコもイヌも人間も何もかも含めた
「生物すべてへのリスペクトに溢れた」本なんだ~と気がついた。
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読んでいくうちに、
私は自分の過去に関わった猫たちのことを思い出してしまい、どうにも先に進まなくなってしまった。

そこで、まずは、私の個人的なネコ話を書かせて頂こうと思う。
少しばかりお付き合いを。
私は20年近く、中野・高円寺付近に住んでいた。
中でも高円寺南のマンションには一番長く住んだ。
当時の私は猫2匹を飼っていて、同じマンションの住民たちも犬やらネコやらを飼ってる人ばかり。
そう、ペットだらけのマンション! とはいうものの「ペット可」マンションではなかったはず。
マンションと呼ばれてたけど、通りから1本入った2階建で、
Villa Belbedere (ベルベデーレ宮殿かい?)というアルファベット表記の、御大層な名前がついた建物だ。
どこの家の入口も緑多い中庭に面していて裏には、これまた緑あふれる遊歩道があった。
アパートの管理人が常駐してるわけでもないし、ペット飼いにはおあつらえ向きのマンションだったかもしれない。
こっそり飼っちゃえ! そんな奴らばかりが偶然集まってしまったのだろう。
うちの隣には、一人暮らしの若い男が住んでいて、彼は、般若顔の若いハスキー犬を飼っていた。
動物のお医者さんのコミック本より顔が合えば挨拶しよく世間話もした。
「せっかく買った爪とぎを使ってくれずに、柱でばっかり爪とぎしてしちゃうだよね~。
柱ボロボロだし~、オタクは犬だからいいですね~。」
「いやいや、とんでもない! ウチは壁にぼこっと穴をあけられまして・・先日壁塗りの修復したばっかりなんですよ~。
なんせ、ウチの、腕っぷしが強いもんで~。」
「は? 壁にぼこっですか~!
お互いに苦労はあるもんですね~。」
「はいはい、なんだったら、柱の修復材も持ってるんで、お貸ししましょうか。」
「それはありがたい!」 住民たちは、こういった近所付き合いをしていた。
ある日、そこのマンションに若夫婦が引っ越してきた。
「妻は妊娠中なんです。 こんな動物だらけのマンションには住めません!」と夫が苦情を申し立てたという。
動物キライな人からみれば、もっともなことだ。
ましてやそこは
「ペット不可」のマンションなのだから!
しかし管理会社は、違法住人たちに退去命令を出すことも勧告することさえもしなかった。
気の毒なことに、その若夫婦は2か月ほどで出ていくことになってしまった。
みんなで法を破れば怖くないどころか・・そっちが通っちまう?
世の中そんなものなんか。 そうらしい。。。
外を歩けば、
https://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E7%8C%AB+%E3%81%88%E3%81%95+%E7%9C%8B%E6%9D%BF/こんなポスターを多くみかけたものだけど、
このマンションでは、
野良猫たちがいくら中庭を闊歩しようが住人が餌をやろうが、誰もクレームしない。
私のうちにも野良猫たちが通ってきていた。
ネコたちは、実にさまざまだった。
すごくフレンドリーで平気で家の中に侵入してくるヤツ、家猫たちを威嚇してまで家の中でボスに君臨しようとするヤツとか、絶対家には入らないヤツ、猫も人間も大嫌いで犬だけが好きなヤツ、世の中のすべてを怖がるヤツ、一匹の猫しか愛さないヤツ、いつもぼーっとしてるだけでさっぱりわからないヤツとか・・
野良猫たちもさまざまだったけど、マンションの住民もまたさまざまだった。
みんな、ペット好きだったのだろうけど・・
マルチーズに服をしょっちゅう着せ替えてるおばさん、(リカちゃん人形の代わり?)
いつもバンダナを巻いた柴犬と同居してる老年男。
シベリアンハスキーと同居してる若いサラリーマン(前述の人)
血統書付きのネコばかり5匹飼っている水商売の女
人もまた、それぞれだ。
ある日、
「血統書付きのネコばかり飼っている水商売の女」が、先住ネコの
ヒマラヤン♀を家から追い出してしまった。
「ぜんぜん懐かないしいつもビクビクしてるし、後から来たネコたちが嫌ってるから」というのが理由だった。
「あの子は外飼いにした方が幸せなのよ。 でも可哀そうだと思って家の前にゴハンはあげてるのよ。」と、この女は言っていた。
気の毒に・・追い出されてしまったヒマラヤン♀は、ボロボロ状態で2階の女の子に発見された。
このネコは元チャンピオンキャットだったという話で、今まで家の外に一度も出たことがなかったことだろう。
サバイバル方法なんて知ってるわけもないのだ。
そりゃあ、外に追い出されれば、すぐにボロボロになるはずだ~!
このネコは、追い出されたからずっと敷地内の物陰に潜んでいたとみえる。
この2階に住む女の子、名前はワクイちゃん。
彼女は学生で、ネコは飼っていないが、超・ネコ好き。
いつも野良猫たちのためにネコ缶を用意してるような子だった。
ワクイちゃんが持ち出したネコ缶をみるなり、ヒマラヤン♀は、涎がダーダーと止まらなくなったという。
「何日も食べてなかったんだ! 絶対!餌なんてあげてないよ!」と彼女は言っていた。
それから、ヒマラヤン♀が来るたびに、彼女は毎日ドアの外でネコ缶をあげていた。
しかし、ネコはいつも怯えていたという。
「でもねえ、ぶっちゃんは、いつも怯えてるんだよ。
そっと触れようとしただけでも、声も上げずにブルブル震えだすんだもん。 触ることもできないんだよ。
いったい、何があったんだろうね?」と、彼女は言っていた。
ぶっちゃん?・・・どうやら、ワクイちゃんは、ヒマラヤン♀に、ぶっちゃんという名前をつけちゃったらしい。
それから、数日たって
学校から帰ってきたワクイちゃんは、自分の家のドアの外に1匹の生まれたての子猫を発見する。
「ひええ! なんだこりゃ!
誰かがうちの前に子猫を捨てたのかな?」 犯人はすぐにわかった!
あの、ヒマラヤン♀、いや、ぶっちゃんだった。
別の一匹の子猫を加えて、えっちらおっちらと、階段を登っている。
そして、またも彼女の家のドアの外に子猫を置くと・・
またも、もう一匹を咥えて運んだ。
合計3匹・・まだ目も開いてないない子猫が3匹
「これ、どーゆうこと? ぶっちゃんは、私に育てて欲しいってこと?」「おそらくね~。
お嬢様育ちのぶっちゃんは、いきなり外に追い出されてしまって、どっかの野良♂にレイプされてしまった。
で、出来ちゃったものの、子育てなんてしたことないし、おまけに、ちょっと精神的ストレスで母性本能も壊れちゃってる。
どうしたらいいのかわからない!! そんでも、なんとか子猫を助けなきゃ~!と思って、
あ、そうだ~!2階のおねえさん! 私にご飯くれるいい人、こうなったら彼女にお願いするっきゃない!と
そんで3匹の子猫をせっせと運んだ。
なんとか、この子たちを助けてください!・・・そうゆうことなんじゃない?」 「一方的に思いを込められても・・私だって、目も明いてない子猫を育てたことはないんだけどな~。
学校もあるし~。」 と、彼女はぶつぶつ言いながらも、結局3匹の子育てをはじめた。
1か月半が経過しただろうか・・子猫たちはかわいい盛りになり、
その頃になると、ようやくぶっちゃんも、彼女と私に、すこーしずつ心を開くようになってきた。
優しく子猫たちを見守り、穏やかな表情を見せるようになった。
落ち着きを取り戻してきた頃のぶっちゃん
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その矢先だった。
突然ぶっちゃんが消えた。
3日たっても姿を見せない。
こんなことはありえないのだ!
臆病なぶっちゃんは、マンションの中庭から外へは絶対出ないネコだ。
交通事故ということも考えにくい。
情報通の「リカちゃん・マルチーズおばさん」に聞いたところ、
「なんでも、保健所かなんかが来て、あのヒマラヤンを捕まえて連れてったみたいよ。」 そんな馬鹿な~。他にも野良猫はいるのに、あの子だけを連れてくってヘンじゃないか!
「私もよく知らないけどね~、誰かがわざわざ通報してあのヒマラヤンを連れて行ってくれ!って言ったらしいわよ。」ワクイちゃんが、すぐに保健所に問い合わせたところ、
該当するネコはいないという。。。
そのままぶっちゃんは消えてしまった。
私たちは、ものすごく悔んだ。
このマンションの中庭に、いつもいるぶっちゃんが目障りだった人がいたということだ。
私たちが、ぶっちゃんや子供たちの面倒を見ていることも目障りだったのかもしれない。
しかし、ぶっちゃんの3匹の子猫たちは、それぞれ里親がみつかり無事引き取られていった。



白と黒の子猫は、兄弟共に引き取られ、残りの白黒ネコは私が引き取った。
メグとなずけたこの猫は、その後、私と共に都内で何度か引っ越しをした後、ニューヨークに渡り、さらにロサンゼルスに渡り、18歳まで生きた。
ぶっちゃんが生きられなかった分まで生きたんだろうか?
ぶっちゃんの分まで幸せだったんだろうか?
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また、同時期・・「ぴよぴよ」という野良猫がいた。
白と黒のブチの♀で、絶対に家の中には入ってこない臆病ものだった。
表情に乏しく、まったく声を聞いたこともない。
それでも腹がへれば、ベランダ側からやってきて、無言で何時間でも待ち続けている。
ピヨピヨ
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しかも、前足をきちっとそろえて、じーーと不動の姿でいつまでも待っている・・そんなネコだった。
ある日、仕事から帰ってくると、ベランダに、また、そのネコが待っていた。
「いったいいつから待ってたん?
お腹すいちゃったんだね~。 でも、家の中には入りたくないんだね・・はいはい! わかってますよ~。」と、私が勝手にベラベラと話しかけてると・・
このネコが、私を見上げて、はじめて反応したのだ。
微かに・・何か言ってる。
耳を澄ませると、すごく微かな声で、ぴよぴよぴよ・・と聞こえた。
命名: ピヨピヨそれから、このネコをピヨピヨと呼ぶようになった。
さらに何か月か過ぎて・・
朝、出勤しようとドアを開けると、なんと・・そこにピヨピヨが座っていた。
な、なんで・・きょうはべレンダじゃなくって、玄関?玄関で待ってるなんて、初めてのことだ!
しばらく見かけなかったピヨピヨは、ものすごく汚れて痩せこけていた。
さらに、何匹かハエがたかっている。。。
「ピヨピヨ! な、なんだって、こんなになっちまったんだ?
困ったなあ~。 すぐに出勤しなきゃならないんだよ~。
きょうは大事なミーティングがあって構ってられないんだ!」そう言いながら家に飛び込んで、水とエサを用意して、また飛び出すと、
そこにはもう、ピヨピヨの姿はなかった。
ん? なんで?なんとなく後ろ髪を引かれる思いだった。 だけど、私は、そのまま出勤した。
当時の私は、ワークホーリックで何よりも仕事が大事というヤツだったのだ。
道々考えた。
ガリガリに痩せこけて汚くなって、おまけにハエがたかってた。
ひょっとして、あれは、死期を悟って最後に挨拶のつもりだったんじゃないだろうか?
それに・・いつものようにベランダのところにいなかったのは、ジャンプしてベランダに上がる体力さえ残ってなかったからだ!
そんなことを、私は後で気がついたのだ。
私は、大バカ者だ!
私は、なんで、あんな冷たいこと言っちゃったんだろう?
少しの間一緒にいてあげて、今までありがとう! 楽しかったよ!と、優しく撫ぜてあげればよかったんだ。
ゴハンが欲しかったんじゃない! ピヨピヨには食べる気力も体力も残ってなかったはずなのに。
私は、私は・・大バカだ~!このとき、ひどく自分を責めた。 でも、すべては後の祭りなのだ。。。
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さて、昔話をしてしたせいか、胸のつかえがちょっとばかし取れた気分。
本題に移ろう。
この本は前述したとおり、
吉本家で、「ハルノ宵子さんの病気ネコばかりを抱えた奮闘記」というべきもの。
それも、ほとんどが野良ネコの話なのだ。 家ネコですら元野良猫だったものばかりなんだから。
どんだけ、ハルノ宵子さんがネコへかける愛情が深いのか!
しかし、彼女の愛情は「ネコが大好き@、野良猫たちが可哀そう」という感情だけではないということに気づく。
世にネコ好きも多いことだろう。
「ネコが好き!」「野良猫が可哀そう!」という感情だけで、行動してしまう人の多いことか。(←私もその一人だった)
まず驚いたのは、ネコの病気に対する知識だった。
FeLVのキャリアの猫は発病してくると首のリンパのあたりを触るとわかるとか、ネコ砂の粘着具合で尿の状態がわかるとか・・
さらに獣医師の力量まで見極めている。
野良猫が姿を見せなくなったときは探し出し、死んでいる場合、どのようになくなったのか実地検分したり、推理・検証までしてしまう。
好きという感情だけのネコ好きだったら、惨たらしい死体なぞ見たくもないだろうし、おそらく目を背けてしまうことだろう。
しかし、どのような状況でどのようにして亡くなっていったか、それを知ることで、その猫の人生を共有してあげたことのように思えるのだ。
それが哀悼ということではないのだろうか。
辛い、惨たらしい、可哀そうすぎると、目を背けてしまうのは私たち人間側の感情に過ぎない。
好き、かわいい!というのと、同じ感情でしかないように思える。
「好き」と「愛情」の違いは、そこにあるのだろう。
愛情があるからこそ、よく観察し病気への知識も豊富になり、鋭い直観も働くようになり、咄嗟の判断力もできるようになる。
それはまた、★それぞれのネコの生き方を重んじるということになる。
個々の猫の生き方を重んじているのだ。
アメリカでも迷いネコや弱った猫をみつけた場合、
「レスキューセンターに連絡して保護、病院で治療して、里親探しをして家の中で飼う」というのがセオリー通りなのだけど・・
それがすべての猫に当てはまるわけではないということだ。
外生まれ外育ちの野良猫の中には、どうしても家猫にはなれないネコもいる。
家に閉じ込められただけでストレスになったり・・
病院に連れていかれるということは、「宇宙人に誘拐されて体中をいじくりまわされる」ような恐怖とショックになる子もいるだろう。
(と、文中にも書かれていたが)
ビビりネコのくせに芯が強いというネコもいるし、
病院に連れていかれただけで、かえって命を縮めてしまうこともあるだろう。
まさに、個々の猫によって違う。
生きるということは、ただ命を長らえればいいということではないはず。
彼女は、それぞれの猫たちの生き方を感じ取り、個々に尊重している、ということだ。
私は、渡米してからアメリカ人たちに、よく聞かされた言葉がある。
「愛とはリスペクトすること」 「愛とリスペクト」
多くのアメリカ人がそう言う。
リスペクト :
respect日本語にすれば、「尊敬する」とか「尊重する」ということになるんだけど、なかなか、それを愛とセットにしている人は少ないのかもしれない。
好きだからこそ、相手の生き方を尊重する
それは自己中の感情から離れ、相手の生き方を感じ取り、時にはサポートし、時には黙って見守る
そういった、客観性、理性的なことさえも含まれている気がする。
だから、辛い結末になったとして、それがどんなに悲しかったとしても、後悔することはないし、また立ち上がれる。
つくづく、そんなことを感じた。
そして猫たちのサイドから見れば・・
彼らは、どんなときでも、今一番したいことに全力を傾ける。
病に侵されていても、今、一番行きたい場所に這ってでも行こうとする。
今、一番会いたい人に会おうとする。
なんて、
清々しい生き方
なんだろう。
そんなことを感じさせてくれる本だった。